486話 記憶に残る1950年代の東京

 私は東京の池袋で生まれたのだが、1歳ほどで深川に引っ越して、その数か月後に奈良県の山奥に引っ越したため、物心ついたときの風景は谷底の村であって、東京の記憶は当然ない。私の人生最初の大旅行は、東京から奈良に向かう1歳のときだった。母が目を離すと、この1歳児は高速のハイハイで、車内探検に行ってしまって大変だったと、のちに母が何度も話していた。
 生まれ故郷の東京を再訪したのは、多分1958年だろう。「多分」というのは、誰も正確にいつだったか覚えていないからだ、「どうも、小学校入学以前らしい」というかすかな記憶で、1958年説を打ち出したので、ここでは1958年の事として話を進める。
 1958年の夏に、3人の子供を連れて、母は大旅行を計画した。ふたりの小学生と幼稚園児を連れて、奈良の山奥から東京にやって来ようという大計画である。現在だって、結構大変な旅なのだが、当時はまだ新幹線はなく、さすがに東海道線は電車だったと思うが、ローカル線はまだ蒸気機関車の時代だ。大人の気楽な旅なら、蒸気機関車の旅はおもしろいかもしれないが、3人の子供を連れての母の長旅は、金銭的にも肉体的にも、さぞかしつらかっただろうと思う。末っ子はもうおしめの心配はないにしても、小学生の姉を含めて、旅の荷物を持つ手助けにはならない。
 のちに、「あのとき、どうして、あんな大旅行をしようと考えたの?」と母に聞いたら、「山奥で暮らしているから、子供たちに外の世界を見せてあげようと思って」といったのだが、それが正しい動機だったのかどうか、今となってはもうわからない。
 貧しいのに、大旅行を考えたものだから、親戚の好意にひたすらすがる旅だった。記憶ではなく、想像であの時の旅行ルートを考えてみると、こうなる。
 奈良の自宅→東京駅→高円寺の伯母の家→世田谷の伯父の家→横浜の叔母の家→三島(静岡県)の曽祖父の家→浜松の祖母の家→奈良の自宅に帰宅
 このときの旅で記憶に残る東京の景色はふたつしかない。高円寺では大きな木が何本もある空き地の記憶がある。そこで初めて、紙芝居屋というのを見た。箱を乗せた自転車の男が紙芝居屋だとわかったのはのちのことで、田舎の子供は幼稚園で紙芝居は見ているが、紙芝居屋の存在は知らなかった。カネをまったく持っていない私は、紙芝居を見ることができず、子供たちが集まって紙芝居を見ている光景を、遠く離れた場所からひとり淋しく眺めていた記憶がある。
 もうひとつ記憶に残る景色は、渋谷駅周辺だ。まるで固定カメラで撮影したように、シーンはひとつしかない。どちらも「今はなき」という説明が必要だが、東急文化会館から東横線渋谷駅に向かうバスターミナルの風景で、どこも工事中だったことを覚えている。その場所が渋谷だとわかったのは、それから10年ほどあとに再訪したときに、「ああ、ここだ」と思いだしたわけで、田舎の幼稚園児が渋谷を知っていたわけではない。
 東京は、1964年のオリンピックに向けてどこも工事中だったようで、今年3月まで現役だった東横線渋谷駅の新駅舎は、このときはまだ完成していない。記憶に残る東京の街はここだけだ。工事の騒音とほこりっぽさと人ごみを覚えている。奈良の山奥に住んではいたが、ときどき大阪の街は歩いているから、大都会のビルや自動車や人ごみが珍しかったとは思えない。私が渋谷にいたその日に大事件や大事故があったわけではないのに、なぜこの光景だけを忘れずにいたのかがわからない。
 つい先日、渋谷駅周辺がどんどん変わっているらしいという話を姉としていたら、「そういえば、昔、奈良から東京に出てきたときに、プラネタリウムに行ったのは覚えている?」と突然言った。その記憶は、ない。いや、プラネタリウムに行ったことがあるようなないような、それがいつだったか、モーローとしていて判然としない。確実に言えるのは、この大旅行のときに「プラネタリウムに行った」というはっきりした記憶はないということだ。
 東急文化会館の天文博物館五島プラネタリウムは1957年に開館し、その翌年に行ったらしい。そのあと、世田谷の下馬(しもうま)の伯父さんの家に行ったのだが、バスで行ったのか東急線で行ったかの記憶はないが、バスで行ったとすれば、ここのバスターミナルの記憶があることと移動経路が一致する。
 この大旅行でほかに記憶に残っているのは、横浜の家で食べた「瓶入りのヨーグルト」。堅いプリンのようなものだったが、もちろんその当時、ヨーグルトもプリンもまだ知らない。三島では、三島大社の境内でところてんを食べたのを覚えている。真夏に、目に涼やかな食べ物だったが、酸っぱくてうまくはなかったことを覚えている。大金をかけた大旅行の記憶は、幼稚園児にはこんなものだ。
 子供たちは、少なくとも高校を卒業するまで山里暮らしだろうと母は予想していたようだが、大旅行から3年後の1961年にふたたび関東の住人になった。今度は、東海道線夜行列車のことは覚えている。床に新聞紙を敷いて寝たことは覚えている。東京の川は汚く、臭かった。