532話 ハノイ 百態百景

 神保町でワゴン遊びをしていたら、店頭のワゴンに大きな写真集がのっているのが目についた。ワゴン遊びというのは私の造語だ。神保町散歩は中学生時代からやっているから、私が買いたくなる本を置いているのはどの店か、もうとっくにわかっている。だから、入る必要のない店は、店頭のワゴンだけ点検する。仕入れた本が店の専門とは違う場合、ワゴンに入れてたたき売ることもある。ときに、これが掘り出し物や格安本が手に入ることがある。
 この店は、英語の写真集など売る店ではないので、ちょっと気になった。表紙は、ロシアか東欧か中央アジアあたりの政治家らしき顔つきの男の銅像写真だ。こういう本は、つまらないことになっている。過去の人であれ存命中であれ、銅像が表紙になっている写真集は、政治宣伝臭くて、少なくとも私の趣味ではない。胡散臭さがにおってくるのだ。
 ”HANOI”という大きな文字が目に入った。ベトナム本なら、ちょっと点検してみよう、と手に取り、ページをめくった。ハノイ遷都1000年を記念する本らしい。この手の趣旨の本は、つまらない写真の満載で、国の威信だけを考えた見栄と体裁だらけの本で、大使館に置いてあるが誰も見ないような本のはずなのだが、この写真集はまるで違う。ごちゃごちゃとした小さな写真が詰まっている。屋台も荷物満載のオートバイやハノイの珍風景も載っている。17cm×25cm、346ページのオールカラーの本。カラー写真が、多分2000枚以上載っている本に、この古本屋は「¥200」という値札をつけている。よし、買った。
 “weird and WOW ―HANOI   Through The Eyes Of A Foreigner”(Christina Minamizawa , Social Sciences publishing House , 2010)という本を買った。
 http://weirdandwow.com/
 書名を意訳すれば、『ハノイ百変化』とか『ハノイ百態百景』としてもいいし、あるいは拙著になぞらえていえば『ハノイの好奇心』でもいい。街の人と生活を写真と文章で集めた本は、タイなら”Very Thai”や”Bangkok inside out”といった本がすでに出版されている。ラオスについては、この雑語林でも紹介したが、"Lao Close    Encounters “がある。
http://www.amazon.co.jp/Lao-Close-Encounters-John-Burton/dp/9745240753/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1379551887&sr=1-1&keywords=lao+close
 私はベトナム本をあまりチェックしていないのでよく知らないのだが、雑学本のハノイ版(あるいはベトナム版)は、もしかしてこれが初めてかもしれない。ベトナムに行く日本人のほとんどは、買い物と食べ歩き以外にはほとんど興味はない「るるぶ」人のようだから、日本語ではこういう本は出版されることはないだろう。表紙に大きく使った銅像の男は、北部ベトナムで誕生したリー朝(1009〜1225)の創始者リー・コン・ウアン。死後、リー・タイトー(李太祖)と呼ばれた人物。顔つきが西洋人に見えるのは、ソビエト人か、ソビエト留学経験があるベトナム人彫刻家の手によるものだからかと推察している。
 考えてみれば、かなり変な本ではある。出版元は、ベトナム政府の機関だろう。私の偏見だと言われるかもしれないが、ベトナムの企業がこういう豪華本を商業目的で出版できないだろうと思う。こういう本を印刷・製本する技術が今のベトナムにはあることはわかるが、世界に販売する力はないと思う。英語の本だから、ベトナム人を相手にした本ではない。著者は日系人かと思ったが、夫が日本人のベトナム在住のニュージーランド人だ。インターネットでは、著者の動画など情報は多数ある。
 37ページまでは、ベトナム史などを振り返るつまらない構成だが、そのあとはどんどんおもしろくなってくる。例えば、「ファッション」の章に、Day / Night Wearという項がある。昼夜兼行服というのは、中華文化圏になじみのある人ならよくご存知の、あのパジャマ姿のことだ。台湾や香港はもちろん、東南アジアでは中国系住民は、パジャマを着て近所を出歩くというのをよくやる。ハノイでも、路上にパジャマ姿の人がいる。オートバイにパジャマ姿の人が乗っているという写真だ。パジャマで外出する光景は、日本人にとっても興味あるシーンだ。日本にはパジャマで出歩くという習慣はないが、夜着がパジャマからジャージに変わって、昼夜兼行服が日本でも誕生した。夏なら、昔は下着で出歩くのは普通だったのだから、パジャマを着ているだけ礼儀正しいともいえる。
 "Charcoal Rounds”という章がある。写真を見ると、英語で練炭をそう呼ぶらしいとはわかるが、辞書を引くといろいろわかってくる。石炭の粉を集めて、穴のあいた円筒形にした練炭は日本の発明らしく、英語文化圏にはないようだ。英語圏では、小さな豆炭状のものを「チャコール・ラウンズ」と呼んでいるらしい。なぜこういう話をしたかと言うと、著者が練炭を知らないニュージーランド人だから、街の練炭に注目したのだろうと思ったからだ。七厘で練炭に火をつけている光景は、私の年代の日本人なら珍しくはないから、私ならシャッターは切らない。この本の副題が「外国人の目で見たハノイ」なのだが、私は、西洋人はベトナムでなにをおもしろがっているのかという点にも注目するから、二重におもしろい。例えば、「米」の章では、「新参者には、長粒種の米の飯を箸で食べるのは難しい。短粒種のご飯ならいいのだが」などという感想だ。ただし、著者は、もち米を短粒種、うるち米を長粒種だと勘違いしている。トイレを扱ったページもあるが、やはり情報が薄い。それでも、ないよりはいい。
 全体的には、おおむね私の好奇心と共通する。例えば、風呂場のイスのような、屋台で使う背の低い椅子だ。カブ(ホンダ・ドリーム)に山積みの荷物など、「やはり、注目したか」と同好の士の共感がある。
 犬肉食の話は、感情的な文章でアジア人を蔑視する西洋人の文章ではないかと危惧したが、フランス、カナダ、ドイツなどもかつて犬を食べていたことに触れて、淡々と書いている。ベトナム政府関連の機関が出版しているのだから、当然か。ヘビ食に触れていないのは、多分著者がヘビを嫌いだからだろう。私だって、ヘビ食は取材したくない。
 写真が多い本だから解説は短く、浅い。対象が広いから、それぞれに詳しい考察を書くというのは無理だ。しかし、写真を撮影すればそれで終わりというスケッチ本ではないので、短いコラムをつけただけでも努力賞を授与してもいい。定価2000円でも買うが、日本版はTOTO出版が出さなければ5000円くらいになるだろう。5000円だと、買わないな。それほどの資料性はないから。こういう本を見るたびに、この手の本を日本人が書き、そこそこは売れる日本になってほしいと思う。現実は、いつまでたっても「食う、買う」だけの安手のガイドしか求めない日本だ。
 この本は3000部印刷したそうだが、探せばどこかで手に入るだろう。ベトナムの古本屋が比較的可能性が高いか。