538話 だいぶ前とちょっと前の海外旅行の話  その2

 
 『海外旅行ABC』で描かれる当時の海外旅行は、実は旅行荷物やチップの話など、現在の海外旅行とあまり変わらない個所が多いのだが、現在とは大きく違うことがふたつある。
 まずは、カネの話だ。著者の旅は、1960年か61年頃だろうが、当然まだ海外旅行は自由化されていない。制度上、観光旅行は認められていないが、経済的にも自費で外国に遊びに行ける人はほとんどいない時代だ。外国に行けるチャンスは、他人の懐をあてにしないといけない。当時のカネと海外旅行に関する話は、こうある。
 「かりに100万円の用意ができたとすれば、航空運賃60万円を差し引いた残りの40万円を20ドル(7200円)に割って、55日は外国旅行ができるという数字が出てくる」
 ホテル代は10ドルくらいだから、食費やそのほかの出費を合わせても、1日20ドルあればなんとかなるという計算だ。「航空運賃60万円」というのは、架空のものではなく、著者が旅したルート、日本→ヨーロッパ→アメリカ→日本という旅程の航空運賃である。100万円あれば充分という金額ではなく、おみやげ代などを考えれば、あと10万円は欲しいという金額だ。
 ホテル代は朝食と合わせて10ドル(3600円)くらいだから安いと書いているし、「かりに100万円の用意ができたとすれば・・」と簡単に書いているが、当時の小学校教員の初任給が1万円の時代だ。現在の初任給が20万円だとすると、当時の100万円は、今の2000万円くらいの価値があるということになる。交通がそれほど便利ではないという地域なら、当時の100万円は住宅購入費(土地と建物)に等しい金額である。それが、海外旅行費用相当額である。
 カネに関する小ネタをふたつ。ひとつは、サンフランシスコ空港内の保険会社らしきところで、日本円の両替をしていたというのだ。1ドルが360円というのは公定レートだが、「フリーレート(自由比率)の欄には395〜400円と書いてある」。事務所で堂々と営業しているのだから闇両替ではないのだろうが、日本から円を持ち出せば香港のように自由に両替できたようだ。日本国内の闇ドルとほぼ同じレートだ。帰国する際に手元にドルがある場合、ここで両替したほうが得なのだが、羽田空港で見つかると面倒なことになるようだ。
 外国からそのまま米ドルを日本に持ち帰った場合、「50ドル以上の現金は(税関に)申告する義務がある。日本円に換えるのは帰国後10日以内に限られている」そうで、この時代、為替管理が厳しかったのだ。
 カネの話と並んで、もうひとつの「今は昔」の話は、「見送り」だ。
 (海外旅行のさまざまな準備をしていると)「吹聴するわけでもないのに知り合いの間にあいつが洋行するそうだとのいつとはなしにひろがって来る。お出かけだそうですねといわれて、少々テレながらもいささかポーズもとりたい。いや、まだどうなるのかわかりませんよとか何とか逃げながらも、内心嬉しいことは嬉しいのだからいつしか語るに落ちて、送別会やら餞別の渦に巻き込まれるのがオチである。餞別はそのときはありがたいが、帰ってからのおみやげを考えるとウンザリする」
 そうそう、おそらく1970年前後あたりまで、海外旅行者に対して、駅や空港まで見送りに行くのは普通だった。この当時、九州大学では教職員が外国に行く場合は、庶務課が全学に告知する規則になっていたが、著者は見送りに来られると心苦しいし、あとから出す礼状も面倒なので、羽田を発つ日時だけ知らせておいたら、博多を出る日時をなぜ公表しないのかと庶務に苦情が寄せられたという。洋行する偉い人の見送りをしないと、礼儀を欠き出世に響くと考えられた時代だ。
 初めての海外旅行の見送りと餞別の話を読んでいて、ベトナムのことを思い出した。雑誌「すばる」(1988年9月号)に載っていたベトナムの短編小説「冗談みたいな話」(マイ・グー、加藤栄訳)のことで、この小説は改訳されて『ベトナム現代短編集Ⅰ』(加藤栄編訳、財団法人大同生命国際文化基金、1995)におさめられている。この小説は1987年に発表された作品で、外国に派遣されると決まりそうな公務員とその周囲の、興奮とドタバタ騒ぎのようすがユーモラスに綴られている。1986年からドイモイ(刷新)の動きがあり、そういう世相も反映した小説だ。日本でもあったに違いないが、「外国に行くのなら、ぜひ買ってきて」というお願いの嵐にさらされるあたりがおもしろい。この続編を雑誌で読んだ記憶があるのだが、現物を探せない。雑誌名も、思い出せない。上司や義理ある人からの依頼を断り切れず苦悩するというはなしで、たしか続編では海外派遣の話は取りやめになって、その処理にまた苦労するという話だった。どなたか、この続編を覚えていませんか?