540話 台湾・餃の国紀行 1

 1978年の台湾


 ひと月ほど台湾を旅行してきた。仕事で行ったのではなく、行かなければならない用があったわけでもなく、ただ「行きたい」と思っただけだ。何年も前から行きたいとは思っていたが、なかなか実現できなかったが、今年やっと実現したというだけのことだ。
 台湾に初めて行ったのは1978年で、ひと月ほど旅をした。そのあと79年と81年にも行ったが、そのときはそれぞれ1週間ほどの旅で、しかも急いで何か所か回ったので、あまり覚えていない。だから、台湾の私の記憶は、78年で止まり、今年2013年に再訪するまで、なんと35年間の空白となった。月並みなたとえ話ではあるが、あのときに生まれた子供が35歳になるほどの時間の長さなのだと考えると、実に長い時間が流れたのだと思う。台北のコーヒーショップで、「ここの客の誰もが、私が見た台北を見ていないか、見ていても記憶がないのだ」と思うと、空白期間の長さを実感した。その35年間に、台湾関係書を少しは読んだが、映像はテレビでちょっと見たことはある程度だから、その後の台湾の姿をほとんど知らない。「高架鉄道」の映像は見た。台北101という高層ビルができたのは知っている。そのくらいの知識しかなかった。これから長々と書く台湾話は、台湾のことなどほとんど知らない者の印象記である。居直るわけではないが、不勉強、無知蒙昧である。知らないのに書くのは、よくご存知の方の訂正や追加情報などをいただきたいという願望があるからだ。
 台湾を再訪したいとは思いつつ実現できなかった理由は、台湾の航空運賃にもあった。台湾経由でどこかに行こうとすると、えらく高いのだ。これは今でも変わらない。成田―台北バンコクと飛ぼうとすると、それはそれはとんでもなく高い料金になる。90年代になって、一度だけ台湾の桃園空港経由でバンコクに行ったことがある。途中降機できない航空券だったから、空港から台湾を見ただけだった。
 今回の台湾の旅行記の通しタイトルを「餃の国紀行」にしたのは、いつも餃子ばかり食べていたからだ。食文化を覗きながらの旅行なら、できるだけさまざまな食べ物を食べた方がいいのはわかっているが、街を散歩していて「水餃」とか「鍋貼」(焼き餃子)という文字を見かけたら、その誘惑にはなかなか勝てなかった。私は、餃子が大好きなのだ。人口あたりにすれば、世界で一番餃子屋のある国が台湾だ。だから、「餃の国紀行」である。台湾の餃子の話は、あとで詳しく書くことにして、現在の台湾と比較をする意味でも、78年当時の台湾を振り返っておく。
 台湾は、1947年2月28日(2・28事件だ。ここで解説すると長くなるので、自習してください)以後、1987年まで戒厳下にあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 だから、78年の旅行も戒厳下だった。物々しくはなく、韓国のように夜間外出禁止令など出ていなかったが、「スパイを見つけたら、すぐに知らせよ」といった標語が電信柱などに張られていた。「匪謀」(スパイ)とか「光復大陸」(大陸に攻め込んで、国民党が支配する)といった語は、街を散歩していればすぐに覚えた。反共独裁国家だったが、歴史や社会や政治を一切知らない団体観光客には、そういう暗い面は見えなかっただろう。
 1972年に、日本は中華人民共和国を承認し、台湾と国交断行し、両国の大使館はなくなった。そのため、台湾を旅行するには誰でも、亜東関係協会が駐韓国中華民国大使館を代行して発行するという形式になっているビザを取らなければいけなかった。当時、ビザなし滞在などなかった。共産主義関連の文章や中国製品などをチェックする目的で、税関検査も厳しかった。
 1978年とは、1945年に12歳だった少年がまだ45歳だ。日本語で教育を受けた国民学校(小学校)卒業の少年が45歳、終戦時20だったとしても、78年にはまだ50代なかばだ。つまり、台湾育ちの人なら、40代以上の人は程度の差はあるが、日本語が充分に理解できるということで、日本人よりも美しい日本語を話す人も少なからずいた。しかし、私は日本語を頼りに旅するのを潔しとしなかったので、片言の中国語で質問し、しかし「日本人なら、ちゃんと日本語を使いなさい」としかられることもあった。私が旅した78年の「35年前」は、まだ戦時中である。35年は、それほどの長い年月だった。
 旅行ガイドブックは、JTBガイドやブルーガイドなどはもちろん発売されていたが、個人が気ままに旅するのに適したガイドブックはまだ発売されていなかった。「地球の歩き方」も「ロンリープラネット」も、台湾版などなかった。ただ、英語のアジアガイドに台湾のページがあったような気がするが、もちろん詳しい情報などなかった。あるいは、すでに英語による詳しいガイドブックが発行されていたかもしれないが、私は読んでいない。あのころ、台湾は若者が旅するような国ではなかった。日本の若者は欧米中心で、はぐれ者がインドに行った。東アジアや東南アジアは、団体旅行のおっさんだけが行く場所だった。欧米の若者も、台湾にはほとんど来ていなかった。
 1978年の私は、ほとんど何も知らず、誰からも旅行情報をもらわずに、台北松山空港に到着したのである。バッグには、麻布の亜東関係協会でもらったパンフレットや簡単な地図くらいは入っていただろう。台湾人留学生から習っていた中国語の学習ノートも、バッグに入っていた。本当は沖縄から船で入りたかったのだが、そうなると日本・台湾往復の乗船券を買わないとビザがとれないとか、うまくビザがとれても台湾から先の旅が普通航空運賃で飛ぶことになり、香港に飛ぶにしてもとんでもない金額になりそうだったので、不本意ながら飛行機を使うことにした。
 桃園空港は翌年2月の開港だから、78年当時は松山空港しかない。翌79年に再訪したときは、新空港に到着した。当時の正式名は中正国際空港、2006年に正式に桃園国際空港と改称された。