541話 台湾・餃の国紀行 2

 安全旅社 その1

 1978年、台北松山空港に到着して、多分バスで台北駅に向かったのだと思う。その記憶はまったくないが、それまで国内外の旅で、「安宿は駅裏にあり」という原則があるとわかっていたから、とりあえず台北駅を目指したのだろう。駅近くなら、台湾旅行にも便利だと考えたはずだ。ガイドブックはないのだから、台北駅の裏を歩き、2階建ての長屋に「旅社」という文字を見つけた。1階は商店で、2階が安宿だった。2階に上がるなり、「あんた、日本から?」と、おばさんにいきなり完璧な日本語で話しかけられた。東南アジアの旅で、中国宿「旅社」にはなじみがあるから、即決でそこに泊まることにした。それほど汚くはないし、インドのようにノミや南京虫に悩まされることはないだろうと思った。
 夜になって、ここがとんでもない宿だとわかった。宿の前で夜市が開かれ、私の部屋のすぐ下がカセットテープ屋(レコード屋か?)だった。ぴんから兄弟の「女のみち」(1972)がエンドレスで、大音響で流し続けていた。1度だって聞きたくない歌なのに、エンドレスだ。
 翌朝、すぐに静かな安宿探しを始めた。路地から路地へと歩きまわっていると、大声で日本語をしゃべっているふたりの男と、四つ角で出くわした。
 「おはようございます。このあたりで、静かな安宿、知りませんか?」
 「おお、それなら、俺たちのいる宿がいいぞ。安全旅社。ここを歩いていけば、すぐわかる」
 私はすぐに宿を移り、安全旅社の宿泊者となった。駅裏の重慶北路一段、台北駅と北門(承恩門)の間を北上した場所だ。
 78年に私が見た台北駅は1940年に建てられた3代目の駅舎で、現在のものは89年に完成した4代目である。現在は旧駅舎が消えて、国鉄線路が地下に潜ったせいで、記憶に残る駅周辺の風景はまったくなくなった。北門を、「ああ、これは、昔もあったな」と思い出したが、この門は日本時代以前からあったそうで、「35年前から」どころじゃなかった。北門をはっきり覚えていたのは、その姿のせいでもあるが、いやな思い出があるからだ。北門付近の重慶南路,延平南路、中華路といった大きな道路を渡るのは命がけだったからだ。自動車が多いのに横断歩道がなく、自動車優先の街だった。それが今では至る所に横断歩道がある。いい方向に、街は変わった。
 私に安全旅社を教えてくれたふたりは、台湾で出会ったらしい。ひとりはパリで料理の修業をしての帰り道だといった。もうひとりはタイやビルマの山奥に行っていたといい、台湾でもビルマ少数民族の服装をしていた。九州の大学で教えているというその男は、会った日の夜、バッグから本を取り出して、「この部分が、俺が案内した個所でなっ、それで・・・」とページを指さしながら料理人に本の説明を始めた。
 その本は、すでに読んでいた。コックをやっていたころ、いつかアジアの本を書こうかと考えていた。企画らしきものを立てて、出版社に売り込んでみた。そのうちの1社が、後楽園近くに事務所がある文遊社だった。アジアの本を出しているこの会社なら、私の本を出す可能性があるかもしれないと思ったからだ。私に応対してくれたのは、のちに独立して出版社めこんを興す桑原さんで、私の企画は実現できそうにはないが、「アジアに興味があるなら、これを読んでください」と、ひと山の本をくれた。その中の1冊が、安全旅社で再び出会った『黄金の三角地帯』(竹田遼、文遊社,1977)である。ということは、桑原さんとのつきあいも、もう35年になるのか。
 この本にはまだまだ余話がある。台湾にも寄った78年のこの長い旅を終えて帰国して間もなく、カメラマンのシローさんと会って、旅の報告をした。シローさんの話は、この雑語林350〜352話の「阿佐谷時代」に詳しく書いている。そのシローさんが、「今夜、知り合いが関係する出版パーティーがあるんだけど、もしマスコミに興味があるなら、行く? 会費さえ払えば、誰でも出席できるよ」という。会場は、渋谷のスペイン坂近くのおしゃれな店らしいが、アジア関係者も来るというので、誰のどういう本の出版記念パーティーなのかも知らず、シローさんについて行くことにした。それが、まったく偶然にも『黄金の三角地帯』の出版記念パーティーだったのだ。十数人しかいない小さな会で、当然桑原さんがいた。「あれ、なぜここに?」と私をいぶかしげだった。著者の竹田氏は週刊誌ライターを本業にしているので、出席者のほとんどは同業者だった。桑原さんによれば、あの会でもらった名刺を見ると、「猪瀬直樹」や「佐野眞一」といった名前があったそうだが、彼らも当時は同業者以外にはほとんど知られていなかった。他にも、のちに有名になる書き手や、アジア関連の会などで出会う人たちがいたらしいが、記録がないので想像の域を出ない。
 翌79年、私はビルマに出かけた。成田空港の出発ロビーで、「おぬし、どこに行くんじゃ?」という大声が聞こえて振り向くと、安全旅社を教えてくれた九州のセンセイだった。   
 「ああ、お久しぶりです。これからバンコクに行きます」
 「ということは、エジプト航空か。俺と同じだ」
 センセイはタイに行き、またビルマの山奥に潜るのだと言った。荷物は小さなバッグと金属バット。「子供たちに野球を教えようと思ってな」
 同じ飛行機でバンコクに行き、お互いの定宿の楽宮旅社に泊まった。数日後、センセイは山からビルマの国境を超え、私はビザをとって空路でビルマに入った。このセンセイとめこんの桑原さんは個人的にも交友があり、最近まで年賀状のやりとりをしていたという話を、この文章を書くための取材で初めて知った。
 竹田遼氏は後に筆を折り、ビジネスマンとなって、バンコク勤務となった。そういういきさつで、バンコクで遊んでいた私とまた出会うことになるのである。