963話 大阪散歩 2017年春 第2回

 ドヤ街から安宿 1975年


 東京の山谷、大阪の釜ヶ崎はともに現在は正式地名としては残っていないが、かつてはドヤ街として有名だった。山谷は、1966年まで「台東区浅草山谷」という地名だった。釜ヶ崎は、今宮村字釜ヶ崎という字(あざ)にすぎなかった上、1922(大正11)年にその字も消えたのだが、通称としていまでもまだ使われている。
 ドヤは宿(やど)を後ろから読んだ隠語で、いわゆる簡易宿泊所がある地区だ。おもに日雇い労働者が泊まる安い宿泊施設が密集している地区を、かつてはドヤ街といった。
 JR大阪環状線新今宮駅前、西成区のドヤ街をかつて釜ヶ崎といった。現在でもこの名を口にする人もいるようだが、マスコミの場で表だって使われることはない。1970年代の前半、私はこの地区にときどき出没していた。稼ぎにきたのではなく、旅行者の安宿として利用していたのだ。昔も今も、私はカネのない旅行者だが、釜ヶ崎で働くとなれば、暴力団が支配している場に身を置くということがわかっているので、カネはほかの場所で稼ぐことにしていた。
 1975年の春も、釜ヶ崎にいた。京都の友人を訪ねたあと、大阪に来ていた。そこから船で沖縄に行き、沖縄で稼げたら、そのカネを持って船で台湾に行くのもおもしろいなどと夢想していた。
 多分、1泊350円だったと思う。1部屋1畳半の個室である。東京では通称「カイコ棚」と呼ばれる2段ベッドが通常のドヤだったらしいが、大阪では狭いながらも個室が主流だったようだ。山谷には何度か行ったことはあるが、泊まったことはない。新大久保にもドヤはあり、そちらはカイコ棚の様子も知っている。大阪にも個室ではなく2段ベッドの部屋があったことも知っている。余談だが、岡林信康は関西出身なのに(高校まで滋賀県、大学は京都)、「釜ヶ崎ブルース」ではなく「山谷ブルース」を歌ったのはなぜだろう。
 1975年に泊まった大阪のドヤは、ドアを開けると、靴脱ぎ場があって、畳が1枚敷いてあり、ふとんが畳んである。その先に4分の1畳ほどの板敷きの部分があり、たぶん荷物置き場だ。壁際には、便所の掃き出し口のような小さな窓があった。だから、スペースでいえば、奥行きの深いトイレである。
 その時、私はアジア旅行から戻り、わずかばかりのカネを作ったところだったので、旅の記憶が鮮明だった。インドネシアやインドの安宿は、おおざっぱな話をすれば1泊1米ドル前後だった。インドルピーは1ドルが約8ルピーで、カルカッタの安宿がドミトリーで6〜8ルピーだった。ジャカルタの未公認ユースホステルは、ドミトリーのベッド1台が1ドルだった。のちに悪名を広めることになるバンコクの楽宮大旅社は、個室1泊が25バーツ、日本円にすれば350円くらいだった。部屋の広さはまるで違うが、まだ円が安かった時代は、バンコクと大阪の宿代は同じだったのだ。1ドルが270〜300円していた時代である。
 1975年に最初に泊まった釜ヶ崎の宿で、ノミに食われてひどいめにあい、薬局でかゆみ止めの薬を買ったら450円だったということを覚えている。別の宿に移り、沖縄行きの船が出る南港までの行き方を宿の支配人に教えてもらっているうちに、暇つぶしだったのだろうがしばらく世間話をした。私が、客のほとんどである労働者たちとは異質な珍客であることに興味を持ったのかもしれない。
 「大阪にも飽きたから、オレも沖縄に行こうかな」
 40前後くらいの支配人が言った。
 「沖縄で食堂でもやろうと思うんだけど、事情がさっぱりわからないんだ。だから、沖縄に行ったら、不動産事情とか保健所の問題とか、わかったら教えてくれないかなあ」
 財布から、5000円札を取り出し、宿のカードといっしょに私に手渡した。5000円は10日分以上の宿泊費だから、けっこうな額だ。
 「まあ、無理だったら、それでもいいよ。何かうまい物でも食えばいい。手紙をくれなくても、気にしないから」
 そう言ってくれたが、那覇で取材もどきのことをやって、結果をハガキに書いて送った。原稿ではないにしろ、文章を書いてカネをもらったのは、投稿以外ではそれが最初の体験だった。