914話 イベリア紀行 2016・秋 第39回


 あの時代のスペイン、マドリッド 前編


 バルのカウンターで隣り合わせた人に、タパス(つまみ)の食材と料理法に関して質問したことがきっかけで、しばらく世間話をすることになった。
 「スペインは初めてですか?」
 その男は、私に聞いた。
 「いや、何度か来ています。前回はバルセロナに行ったので、マドリッドは久しぶりです。ずいぶん変わりましたね」
 「それはいつのことですか? 」
 「2002年でした。その前は、1975年の9月でした。それがどういう時代だったか、あなたならすぐにわかりますよね」
 私よりちょっと年下だと思われる紳士に言った。彼なら、わかっているはずだ。
 「1975年の11月にフランコが死んだ」
 ポツリと言った。
 「そのニュースを、私はアムステルダムで聞きました」
 中高年のスペイン人ならば、「1975年」といえば、そういう年だと誰でもわかる。
 「あのときは、高校生でしたか?」
 「ええ、そうです。よく覚えていますよ」
 1975年の9月に、私はやはりこのソルにいた。あらかじめスペインに来るという計画ではなかったので、下調べはしていない。使えるガイドブックはまだこの世になかった。スペインに関する教養もなかったが、どうやらフランコ独裁政権のことは知っていたらしい。というのは、パリで「打倒フランコ」の大きなデモがあったことを、フランスのテレビで見ている。フランス語はわからなくても、それがどういうデモなのか、多少は理解していたことは覚えている。カフェか宿で、誰かにスペイン現代史の解説をしてもらったのだろうか。
 どういう方法でマドリッドの安宿を探したのかまったく覚えていない。パリからの列車がアトーチャ駅に着いて、乗客のなかから旅行者風の若者を探して安宿情報を求めたのだろうか。どうにかして安宿を探し出し、ソルのどこかに泊まっていた。
 ある日のこと、宿の近くのマヨール広場にいた。あのころは、広場中央にあるフェリペ3世騎馬像の下には鉄柵はなかったので、石段に腰をおろして人々を眺めていた。同じような若者が他にもいて、いつの間にか話をするようになった。モロッコ人がふたり、フランス人がひとり、スペイン人がふたり、そして私がいた。使用言語はふたつに分かれ、英語を使えるのがモロッコ人A、スペイン人A、日本人の三人だ。フランス語を使えるのが、モロッコ人AとBとフランス人。スペイン人Bは、英語もフランス語も苦手らしい。英語派がよくしゃべるので、主導権を握っていた。私はもっぱらスペイン人Aこと、カルメンとよくしゃべっていた。カルメンという名を聞いて「おお」と驚いたが、スペインではありふれた名前だそうだ。スペイン人のふたりは大学生だった。「今、大学は閉鎖されている」といったような気もするが、記憶ははっきりしない。
 「昼飯にしないか」。モロッコ人Aが言った。「そこの市場で何かを買ってこよう」。広場を抜けて、サン・ミゲル市場に行った。今は改装されてバルやカフェがあるおしゃれな市場に生まれ変わっているが、当時は観光客などまったく意識していない市場だった。皆が少しずつカネを出し、そこでパンやハムや野菜や果物や水を買い、フェリペ3世像の下に戻り、食事をしながらおしゃべりを続けた。
 あのころ、マドリッドの中心部の、すべての街角といっていいほどどこにでも、奇妙な帽子をかぶった制服の男たちが、自動小銃を構えて立っていた。
「あの人たちは、特別な警官で、人を殺しても罪にはならないの。だから注意してね」とカルメンがいった。のちに調べてところでは、あの警官はGuardia Civilといい、日本語では一応「治安警察」という訳語がある。フランコ独裁体制を守るためなら、何をしても違法にはならない存在だった。奇妙な帽子とは、こういうヘルメットだった。
https://www.google.co.jp/search?q=tricornio&biw=1284&bih=717&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwjvvMrM0OvQAhVIwbwKHUJbBaYQsAQIIg&dpr=1.25
 あの時代、旅行者といえども、独裁政権の重圧を肌で感じていた。どれだけひどい時代だったかという事実は、帰国してからの読書で理解した。

 マヨール広場とフェリペ3世像。この像の下に来ると、1975年を思い出す。


 サン・ミゲル市場。建物はそのままだが、外も中もきれいになり、バルもある。