602話 緊急企画 FIFA ワールドカップと旅

 「蔵前仁一書きおろし著作集」の企画案はまだ続くのだが、ちょっと中断して、時節柄、特別編をお届けする。
 私はサッカーに限らずスポーツにはまるで興味はないのだが、旅行中にわずかながら国際試合と接触することがある。サッカーのワ―ルドカップの記憶もほんの少しある。
 その年の、その日も、何か食べるものを求めてさまよっていた。カイロの夜は静まり返り、ときどき家の中から怒号、どよめき、拍手が聞こえてきた。路上に人はほとんどいなかった。この国でいったい何が進行しているのか、まるでわからなかった。宿に戻ると、従業員たちがテレビでサッカーの試合を夢中で見ていた。今、インターネットで調べてみれば、あれは1978年のアルゼンチン大会だったとわかった。あの夜以降大騒ぎがなかったことを考えると、あの夜の試合が決勝戦だったのかもしれない。
 ギリシャのパトラからフェリーボートに乗り、イタリアのブリンディシに着いたのは夕方だった。路地裏を散歩していたら、店の奥で大きな窯でピィツァを焼いている光景が見えて、そのまま店に入り、ピィツァを注文した。記憶しているのは、うまいピツァだったことと、店の外がやけにうるさいことだった。ピカプー、プープーとまるで暴走族の大パレードのようにうるさく、大通りに出てみれば、オートバイや乗用車に乗った若者が、イタリア国旗を大きく振っていた。若者に話しかけて、サッカーの試合で、イタリアが勝ったということはわかった。今、インターネットで調べてみれば、その日は1982年7月5日だ。ワールドカップのスペイン大会の準々決勝でイタリアがブラジルに3−2で勝った夜だったらしい。
 ローマにいた7月8日の夕方、薄暮のなか、また暴走行為が始まった。準決勝でポーランドに2−0で勝った日だということを、たった今ネットの情報で知った。わたしは、ただうるさい夜だったことしか覚えていない。「負ければ、静かになるのに」と思っていたのに、勝ってしまった。
 そして、ナポリの夜。街は静寂と怒号の阿鼻叫喚が、散歩をしている私にも感じられた。路上に人はいなかった。そして、どこの家からも歓声が聞こえ、すぐさま自動車やオートバイのエンジン音が轟き、街が暴走族の集会場になった。7月11日、イタリアは西ドイツに3−1で勝ち、優勝してしまったのだが、その夜の私はそんなことはもちろん知らない。「勝ったら、またうるさくなるのか」と心が重くなったが、当然ながらもう試合はなかったから、その翌日からイタリアに静寂が戻った。
 サッカーの試合を、キックオフから終了のホイッスルが鳴るまで全部を見たのは、いままでのところ、あの夜しかない。ビルマ山中だった。当時の呼び方なら、「ビルマのメイミョウ」、現在なら「ミャンマーのピンウールウィン」になるのだが、物置き小屋でサッカーの試合を見た。1998年のフランス大会だ。
 その日の昼過ぎ、宿の庭で旅行者たちと大雑談会をやっていた。庭の雑談会は、水やジュースを飲んでいる我々の多国籍団と、酒盛りをしているイスラエルの若者たちの二派に分かれていた。しばらく話していてわかったのだが、夕方になるにつれてこの場に人が増えてきたのは、これからテレビでサッカー中継を見に行くための集合場所のような感じになっていたからだ。サッカーには興味はないが、ビルマで衛星放送を見るという環境がおもしろそうで、暗くなり始めたころに、彼らについて行った。木造の小屋の前に巨大なパラボラアンテナが設置してあった。「臨時に置いた」という感じで、常設ではなさそうだ。小屋のなかには、長椅子が10列ほど置いてあり。正面にあったのは大きなテレビだったのか、プロジェクターのスクリーンだったのか、記憶がない。入場料は、忘れた。偶然にも、その夜の試合は日本戦だったが、対戦国がどこだったか、記憶がまったくない。日本が負けたことは覚えている。
 この夜の中継でもっとも記憶に残っているのは、この中継がインドネシアの放送局が放送しているものだということだ。アナウンスも解説もインドネシア語で、試合はどの言語であれ理解できるから、それはそれでいいのだが、なぜインドネシアなのかはわからない。