608話 最近の本の話 その2

 『人力車』の奇跡

 インドでリキシャ、タイでサムローなどと呼ばれている三輪自転車や、エンジンがついた三輪自動車について本格的に調べてみようと考えた時、かねてから欲しいと思っていた本を買う決心をした。人力車に関する世界唯一にして最高の研究書『人力車』(齋藤俊彦、産業技術センター、1979)という本があると知った時にはすでに絶版になっていて、神保町の古書店では1万円前後の値段がついていた。「いずれ買うか、図書館で探そうか」と思っていたのだが、本格的に三輪車の研究を始めると、どうしても欲しくなった。三輪車の父にあたる人力車を深く研究しておく必要があると思い、買おうと決めた。見事な本である。著者の熱意に刺激され、私も研究を続け、それから5年ほどたって、『東南アジアの三輪車』(前川健一、旅行人、1999)ができた。この本の人力車に関する記述は、『人力車』で得た情報を基にしている。この『人力車』がなければ、私の『東南アジアの三輪車』は薄っぺらな本になっただろうと思う。
 私の情報収集法のひとつは、あるテーマで調べ物をしていると、出会う人の誰にでも、「目下、こういうことを調べておりまして・・・」と、勝手に雑談を始めることだ。「何か情報をお持ちなら、教えていただきたい」という下心である。出会った相手の経歴・職業・研究分野などを知っている場合は、それに応じて質問を変える。
バングラデシュの大学で出版された研究書が日本で簡単に手に入ったという奇跡や、蔵前さんがニューヨークの書店で見かけた三輪車の本を、神田神保町の路上で見つけたという話はすでに書いた。
「東南アジアの三輪車」をめぐる本 1〜3 
http://www.asiabunko.com/zatugorin1_10.htm
http://www.asiabunko.com/zatugorin11_20.htm
 『人力車』と言う本にも、意外な展開があった。ビルマ語の専門家であり、ビルマ文学の翻訳も多い河東田静雄さんと会ったときも、日本語に翻訳されているビルマ文学はすべて読んでいるがそういう話はせずに、意識的にビルマの人力車や三輪車を話題にした。
 「人力車を引いていたのはインド人が多くて・・・」という話だったので、ビルマの人力車はカルカッタ経由で入ったのでしょうかねえなどと話していたら、「前川さん、人力車の研究書は知っていますか? 」と言った。
 「ええ、もちろん。『人力車』ですね。最大にして唯一の研究書ですから」
 「じゃあ、著者の齋藤さんと面識は? 」
 「いえ、まったく」
 「じゃあ、ご紹介しましょう。友人ですから」
 そうか、おふたりともNHKの人で、元同僚だったというわけだ。まったく偶然に、ビルマ文学と人力車研究が重なった。
 すぐに著者の齋藤俊彦さんの住所を教えてもらい、いまも齋藤さんと手紙のやり取りをしたり電話で話している。
 私が1万円で買った『人力車』は、その後も高値で安定してきたので、おもに図書館用に新装版が出た。『人力車の研究』(齋藤俊彦、三樹書房、2014)。復刻版で、加筆部分はない。定価は3800円だから、古本屋で買うよりも安く、新しい本だから当然程度もいい。
 そういえば、『東南アジアの三輪車』の調べ事をしていた時は、自動車の本を多く出している三樹書房の本を何冊も買った。買うには高い本や入手不可能な資料は、大手町の自動車図書館に通って読んだ。明治からの自動車関連資料があって、自動車そのものにあまり興味のない私でもかなり楽しめた。アマゾンで三樹書房の新刊をチェックすると、自動車と日本の歴史といったテーマの本は今でも欲しいと思う。自動車の本を多く出している出版社でも、二玄社の本は読みたい本はほとんどないのだが、三樹書房の本なら欲しい本はいくらでもある。
 ついでに自動車図書館の現在を確認すると、大手町から浜松町へ移転していることがわかった。自動車が好きな人なら、たまらなく楽しい施設だからぜひ行ってみるといい。大手町時代の自動車御書館で読んだ本の中で、どうしても欲しいと思った資料は、1950年代に、日本の自動車の実力を見せようと、日本からインドネシアまで各社の日本車で走破した報告書だ。海はもちろん船を使ったが、あとは陸路だ。カンボジアの道路を、「これほどすばらしい道路は、日本にはない」と書いているのが1950年代である。報告書は自動車業界の雑誌に連載されたあと小冊子にはなったが、書名をメモしなかった。
http://www.jama.or.jp/lib/car_library/
 数年前に京都に行った時、私としては非常に珍しいことに、あえて観光地をぶらついていたら、「人力車、いかがですか?」という客引きに出会った。人力車の客引きに出会うのは、1974年のカルカッタ以来だ。齋藤さんが『人力車』を書いていた頃は、日本から人力車はほとんど消えた状態で、間もなく完全に消滅するだろうと思われていたのに、世の中わからないものである。ついでに言えば、『東南アジアの三輪車』を書いていたときには想像もできないことなのだが、今はタイのトゥクトゥクが何台も日本の道路を走っている。台湾の三輪自転車も1960年代に廃止されたが、いまは観光用に復活している。