650話 きょうも散歩の日 2014 第8回

 
 ハッブース街


 カサブランカのハッブース街は、1930年代にフランス人によって造られた新市街らしいのだが、モダン様式以前のスタイルだから現代的というわけではない。ちょっとおもしろそうなのだが、行くのがちょっと面倒な場所にある。だからといって、タクシーで行くようなつまらないことはしたくない。そこで、その日の散歩の仮の目的地を、このハッブース街と決めた。「仮の」というのは、散歩途中で何かおもしろいことがあれば、たどり着かなくてもいい場所だからで、私の散歩はこのようにいつも仮の目的地を決めている。これが散歩ではなく、たとえば大使館に行くとか病院に行くとか、しっかりとした目的があって、絶対に行かなければならない場所ならば、れっきとした目的地なので、どこにも寄り道せずに一直線に歩く。距離は長くなっても、迷わないように大通りを歩くこともある。
 しかし、「仮の」がつく散歩の場合は、歩き出す方向だけ決めて歩き出すので、右往左往、東奔西走、南船北馬、自由自在に歩き回る。視界に目印になる何かが見えているうちはいいのだが、住宅地や工場地帯に入り込んでいると、そこから抜け出す道を探し始める。迷子になることを楽しむ散歩でもある。
 その日の散歩も、ハッブース街を目指してまっすぐに歩くこともなく、自由気ままにふらふらとうろついて、自分がどこにいるのかわからなくなった。このあたりはあまりおもしろそうな場所ではないので、軌道修正をしたくなった。ハッブース街がどの方向かもわからなくなったので、誰かに道を聞きたい。英語がわかりそうな人を目で探すと、ちょうど学校から出てきた高校生が目に入った。下校の時間だ。その高校生の服装や物腰の印象は、授業料が高そうな東京のキリスト教系の進学校という感じで、きれいに洗濯された制服を着ている。
 当然ながら、もっともかわいい女の子に声をかけた。
 「ハッブース街には、どう行けばいいですか?」
 質問を何度か繰り返して、なんとか通じた。英語の問題ではなく、「ハッブース」という私の発音に問題があったらしく、「こう発音するのよ」と、正しい発音を教えてくれた。
 彼女は英語で正確に道順を説明できないと思ったらしく、友人たちと相談し、「私といっしょに行きましょう」といった。男女それぞれふたりの高校生が私と歩き始めた。こんな機会は日本でもない。男子生徒のひとりは、「英語とスペイン語ラテン語も勉強しています」と言うだけあって、かなりうまい英語を話した。ほかの3人は、日本の高校生よりは話せるという程度だった。この4人に、道案内のお礼にどこかでコーヒーとケーキでもごちそうしようかと思ったが、誘うと変に誤解されそうだし、誘いを断る「いやそうな顔」を見たくないなどといろいろ連想しながら歩いて約15分、目的地に着いた。4人はハッブース街の入り口で立ち止まって何やら話をしているので、「どうも、ありがとう」といって、別れた。私は広い道を歩き、彼らは路地に入っていった。
 ハッブース街はこじんまりとした魅力的な地区で、工芸品を多く売っているのに、観光地化されていない。大きなカフェはなく、唯一のカフェに椅子は4脚しかない。のどが渇いていて、コーヒーを飲みながらひと休みしたかったのだが、満席で入れなかった。仕方なく、そのまま散歩を続けて、ジューススタンドのような店でスプライトを飲んだ。今年最初の炭酸飲料だ。1時間ほど散歩し、満足したので、そろそろ帰ろうと考えた。
 たまたま高校生たちと別れた場所に戻ったので、高校生たちが入っていった路地に何があるのか気になって足を踏み入れると袋小路で、王宮の裏口があった。このハッブース街は王宮のすぐ脇にあるのだが、この路地の奥にあるのは、王宮の裏口というか通用門とでも言えそうな門で、兵士(か警官か不明)数人が警護に当たっていた。4人の高校生がこの門に向って歩き出したということは、少なくともその一人は、王宮内に住んでいるということだろうか。王宮職員の家族ということだろうか。
 通用門には進めないので、自動車通りに戻って、バッグから地図を取り出して、帰路の散歩のコースを考えた。そのとたん、近くにいた歩道の兵士が私に何か叫んだ。アラビア語はわからないが、何と言っているのか想像はできる。しかし、制服や武器が嫌いだから、「何とおっしゃったのでしょうか? 私はアラビア語がわかりません」と英語で言った。すると、またアラビア語で何か叫んだので、私もまた同じセリフを言った。
 “Don’t stand here. Go!”
 おお、英語ができるんじゃないか。王宮脇の歩道で立ち止まることも許されないなら、王政なんか・・・だよ。大通りに出ると。2メートルおきくらいに兵士が立って警護している。そのくらい厳重な警護をしないと存続が危ぶまれる王制なのだろうか。