669話 きょうも散歩の日 2014 第27回

 なぜ、人はそんなに写真を撮るのだろうか


 今回の旅はカメラを持って行かなかった。撮影したいものはないし、旅の写真など、帰国してから見返すことはないと確信したからだ。2013年に台湾に行ったときはカメラを持って行って、20枚くらいは撮影したのだが、その画像はカードに入ったままで、まったく見ていない。
 風景など、記録に残しておくことはない。話題となるような特異な風景は、私よりもうまく撮影した写真がネット上にいくらでもあるから、もし見たければ、そういう写真をみればいい。わざわざ自分で撮影することはない。雑誌などの取材で行くなら、もちろん撮影はするし、文章に合う写真を選んだりするが、それは仕事だからやることで、仕事でもないのに撮影なんかしたくない。
 私はそう思うのだが、世界中の旅行者のほとんどは、仕事でもないのに、せっせと撮影している。40年ほど前は、「旅行先で景色や物をよく見ず、写真ばかり取っているのが日本人旅行者だ」と、西洋人から侮蔑の目で見られていたのだが、いまでは国籍や民族に関係なく、誰もが写真をよく撮るようになった。写真が、デジタル化したからだ。1日50枚撮影したとして、6日で300枚。昔なら、フィルム代が高い、現像、焼き増し代が高いなどと文句を言って、撮影枚数にブレーキがかかったのだが、いまは1万枚撮影しようが、大したカネはかからない。スマホがあれば、わざわざカメラを買うこともない。フィルム時代よりも格段に安く撮影できるようになったが、そもそも「なぜ、人はそんなに写真を撮りたがるのか」という疑問が解けない。やたらに撮影する人が多数派で、私のようにまったく撮影しない者はごく少数派ということになるのだが、私は多数派の気持ちが読めないのだ。旅行の記念に写真を撮るというのも、私にはわからない。
 例えば、家族旅行の記念にみんなが揃ったところで、パチリと1枚いうのはわかる。新婚旅行の撮影というのも、わからなくはない。しかし、旅先で、何でもかんでも撮ろうという姿勢はわからない。いったい何をそんなに撮りたいのだ。それにもまして、旅の先々で自分撮りしている人の気持ちがもっとわからない。そんなに自分の顔が好きなのだろうか。全人類総ナルシシスト時代の到来なのだろうか。旅の記念というのかもしれないが、その写真がないと、その地に来たことを誰かに証明できないと思っているのだろうか。「来た」と自分が覚えているだけでは嫌なのだろうか。不安なのだろうか。有名観光地で、自撮り棒を使って、スマホに写った構図や自分の表情を確認しつつ撮影している姿は滑稽であり、もの悲しくもある。「ブログなどで発表するから」と言う人もいるだろうが、懸命に写真撮影している人たちの何割が発表目的で撮影しているのだろうか。また、ブログなどは匿名にしているのに、自分の顔写真は公表したいのだろうか。顔の部分を加工して発表するなら、そもそも発表する必要もないだろう。
 今思い出したのだが、研究者たちとの交流会に出ると、主催者側のスタッフが会場で写真を撮りまくり、後日A教授やB氏と雑談をしている私の写真を自宅に送ってくることがままある。有名人A教授といっしょの写真はうれしいだろうと主催者は思っているのだろうが、私にはそういう感動はない。有名人といっしょに写真に写りたいという欲望はないのだ。「いっしょに記念写真」という発想がそもそもないのだが、そういう私はやはり少数者なのだろう。
 雑誌に旅のエッセイを書くと、編集者から「旅をしているご自身の写真を、顔写真として使いたいのですが・・・」と言われたことがあるが、そういう写真はない。私は自分撮りをしないし、「エッフェル塔の前で、パチリ」という記念写真もない。世界の「その場」に立ったことを、誰かに証明したいとは思わないのだ。記念撮影の発想はない。想像で書くのだが、職業的に写真を撮っている人は、自分撮りはほとんどしないような気がするのだが、みなさん、いかがですか。篠山紀信はカネにならない家族写真も撮らないらしいが、それは写真家の世界では特別な事でもないように思う。
 そもそも、私には「旅の記念」という考えもない。旅の記念となる土産物を買わない。本やCDなどを除けば、必要でもない物を旅先で買うこともない。コレクションしている物はないし、書画骨董・高額美術品を買い集める趣味もカネない。物欲があまりないし、荷物が増えるのは嫌だし、幸せにも、配りものの旅土産を買わなければいけない境遇にはない。
 旅の記念に、もろもろの事柄を撮影するという気持ちを理解したとしよう。さて、その次の問題なのだが、旅先で撮影した数百枚、数千枚の写真を、どのように管理しているのだろうか。何割の人が、3年か5年かたって、旅の写真をまた見直すことはあるのだろうか。どこで何を撮影したのか覚えていない数千枚の写真を、何度も見直すのだろうか。シャッターを押した時点で、もう満足なのではないか。撮影することが喜びで、それだけで満足なのではないか。通販マニア、買い物マニアというのは、買うことが重要で、買った時点でもう興味を失う人が多いらしい。買った商品が届いても、封も開けずに積んでおくこともあるらしい。テレビ番組を、録画しただけで満足・安心というのとも似ているような気もする。
 それと同じで、「旅先で撮影する」という行為が好きなのであって、撮影が終われば、多くの人は、あとはどうなってもいいのではないか。その「多くは」というのが、何割かは議論の余地はあるだろうが、撮影することで旅先の時間を使っているのであって、もし撮影しなければ時間を持て余すのではないか。撮影をしないと、「見た」という充実感がないのだろうか。旅先の撮影は、時間つぶし、退屈しのぎ、撮影のほかに有効な時間の過ごし方がわからない人の行為ではないかなどと思えてくる。
 インターネット上に、数多くの旅行記があるが、そのほとんどは旅行写真記だろう。文章を書くには時間がかかるし、頭も使う。写真なら、自分が何を撮影したかわからなくてもいい。「きれい」か「おもしろい」だけでいいのだ。それなら手軽に更新できるし、読者も写真の方が、文字を読まなくてもいいのでうれしいのだろう。
 私は変ですか?