673話 きょうも散歩の日 2014 第31回

 水道とカイシャ、あるいは水道会社


 バルサロナを散歩していて疑問に思ったことはいくつもある。そのうちのふたつが、同時に解消した。
 最初の疑問は、砲弾型のガラス張りビル(例によって趣味が悪い)トラ・アグバル(Torre Agbar)のことだ。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=torre+agbar
 『地球の歩き方 バルセロナ』(2014)には、こういう説明がついている。
 「2005年に完成した、バルセロナ水道局(AGBAR)のオフィスビル。設計はパリの『アラブ世界研究所』や東京・汐留の『電通本社ビル』などで知られるフランス人建築家ジャン・ヌーベル」
 なぜ、バルセロナの水道局が、38階建てのガラス張りビルを建てたのだろうか。「近代的な水道施設を新たに作った」というのならば、その施設が奇抜なものであれ、納得はできる。しかし、市の中心地からはちょっと離れているとはいえ、有名建築家に依頼して、高層のオフィスビルを建てる理由がわからない。念のために調べてみたのだが、日本語ウィキペディアでも、「バルセロナ水道局(Aguas de Barcelona)の所有)」とあるが、本当に水道局の所有なのか。情報源がどこなのかわからないが、ネット情報でも「水道局のビル」という説明がほとんどだが、そういう文章を書いている人たちは、何も疑問に思わないのだろうか。水道局という役所が、これほど巨大で奇抜なビルを建てる理由はどこにあるのか、ぜひとも調べてみたくなった。
 『バルセロナ 地中海都市の歴史と文化』(岡部明子、中公新書、2010)を読んでいたら、うれしいことにその解答があった。
 「アグバルとは、『アグアス・バルセロナ』の略、バルセロナ水会社の建物だ。水道局の役割である。市の上下水を運営するところが、なぜこんな目立つ建物をたてたのか。(略)水は公的に供給されるものと思い込まれているかもしれないが、バルセロナでは常に民間会社が水事業を手がけてきた」
 日本人は「水会社」というものが理解できないので、何の疑問も感じずに「水道局」と書いてしまったのだろう。「1867年、アグバルの前身はハリエージュ(ベルギー)で創設され、一時期フランス資本に移り、1919年にやっと地元カタルニア資本の所有となった。国家権力が強まって、マドリッドでは水事業が公営化されたが、中央政府の干渉を嫌ったバルセロナでは、その後も一貫して地元民間企業が担い続けた」
 水道のことを調べても、バルセロナの特異な歴史がわかる。アグバルは水道事業だけではなく、保険や建設、車検などの認証ビジネスにも手を広げてきた。本業の方も事業を伸ばし、スペインの全人口の3分の1がアグバルの水を利用している。ラテンアメリカにも進出し、2006年にはイギリスの水会社の経営権を取得した。
 なるほど、そういう大会社なのかと感心しつつ、引き続き『バルセロナ』を読んでいると、この先事態が急転したことがわかる。2005年にあの砲弾ビルを建てて、天下を取った気分だったのだろうが、水道や電力の事業を展開しているフランス系の会社スエズがアグバルの株を買い進め、「2007年、スエズは、地元カタロニアのラ・カイシャグループと持ち株会社を共同で立ち上げ、これを隠れ蓑に2008年に筆頭株主になっていた。2010年ついにアグバルの経営権はあっけなくスエズに移管した」。 
 スエズは2006年にフランスガス公社(GDF)と合併し、GDFスエズとなり、水道事業はスエズ・エンバイロメントに分割されている。つまり、アグバルは、バルセロナ市水道局ではないだけでなく、スペインの水道会社でさえないというのだ。のちに、ウィキペディアの英語版、カタルーニャ語版、スペイン語版などで確認したら、「水道局説」はなく、上に説明したことが簡潔に書いてあった。
 アグバルを調べていて、もうひとつの疑問の答えも見つけた。バルセロナを散歩していると、ビルに掲げられた”La Caixa”という看板が気になっていた。「ラ・カイシャ」と読むことはわかる。オフォスビルにこの看板だから、どうしても「会社」を連想してしまう。どこかで目にしたことがあるような気がする単語だ。スペイン語辞典で調べてみたら、「銀行の名前」としか出てこない。この単語に見覚えがあったのは、ポルトガルで見たからではないか。ポルトガル語の辞書には、「現金、箱、金庫、銀行」といった意味が書いてある。ラ・カイシャが金融機関であることは、その外見でわかるから、スペインの会社が、ポルトガル語の名前をつけたということか。
 ネットでちょっと調べた。「パンドラの箱」の翻訳では、スペイン語ではla caja de Pandora”、ポルトガル語では”caixa de Pandora”だ。カイシャは、やはりポルトガル語か。納得できないのでさらに調べると、カタルーニャ語の翻訳も出ていた。”la caixa de Pandora”。ということは、“caixa”は、ポルトガル語だろうという私の想像は間違いで、同じ綴りだがカタルーニャ語なのかもしれない。そう考えた方が自然だ。
中公新書の『バルセロナ』を読み進める。
 「1844年、工場労働者ら庶民の生活の質を向上することに主眼を置いたバルセロナ貯蓄金庫(カイシャ・デ・バルセロナ)が創設された。また1904年には市民の老後の生活保障のためのカタロニア年金金庫(カイシャ・デ・ペンシオス)ができている。(略)この二つの金庫系金融が統合して1990年にラ・カイシャが生まれる。カイシャとは『ザ金庫』の意味で、金庫中の金庫を意味する」。この場合の金庫というのは、紙幣や貴重品を入れておく金庫のことではなく、日本の農林中央金庫や信用金庫などの金融機関のことだ。
 このcaixaという語はカタルーニャ語だろうが、日本語の「会社」という音に似すぎている。「会社」は、英語のcompanyの訳語ではあるが、日本語になったポルトガル語のひとつで、”caixa”の漢訳という説がネットにある。引き続き調べてはいるが、裏付けはまだとれていない。多分、俗説だろう。