739話 机に積んだままの本の話をちょっと その5


 漂って生きる

 小学生に「将来、なりたい職業は?」といった質問をすると、男なら、「サッカー選手、野球選手、社長、宇宙飛行士」など、今も昔もあまり変わらないようだが、私はそういう夢や希望はなかった。なりたい職業はないが、やりたくないことはあった。さすがに小学生時代は将来のことはなにも考えていなかったと思うが、中学時代なら比較的はっきりと考えていたと思う。
 背広は着たくない。満員電車に乗りたくない。規則に縛られた仕事はしたくない。営業のような仕事は向いてない。組織に身を置きたくないといったことなどを考えていた。要するに、サラリーマンや公務員にはなりたくないということだが、ではどういう職業ならいいのか、よくわからなかった。本を読んでいたいとは思った。中学生時代から読み始めた新書やNHKブックスのような本を書く側になりたかった記憶があるが、どうすればそうなれるのかわからなかった。学校の勉強があまり好きではなかったから、教師、とくに大学教授への道はまったく考えなかった。
 芸人の写真集である『芸人の肖像』(小沢昭一ちくま新書、2013)のページをめくっていて、第2章「あきなう芸」でテキヤを取り上げている写真を見ていて、20歳前後に頃に、テキヤ稼業に心を動かされたことを思い出した。「あきなう芸」というのは、居合抜きやガマの油家相、気合術などしゃべりながら商売をする「タンカ売」(たんかばい)のような稼業のことなのだが、私が憧れたのはそういう「あきなう芸」そのものではなく、日々転々とする「うつろう人たち」の姿だった。ここではないどこかに行って、そこで数日とどまって稼ぎ、また移動していく生活が魅力的に見えた。名所旧跡神社仏閣に興味のない私には、「国内旅行」には魅力を感じなかった。テキヤの日々は、少し妖しく、刹那的に見え、それが魅力だったから、商う職種は「金魚すくい」でも「たこ焼き屋」でも「仮面売り」でも、何でもよかった。
 祭りの露店を見かけると、彼らの仲間に入れてもらい、あちらからこちらにうつろう日々のなんと甘美なことか。そういう憧れがあったが、もちろん実行に移したことはない。ひと月くらいならおもしろいだろうが、それ以上は単調な毎日に飽きるだろうと思った。いつまでも水風船を売っているのはいやだ。そういうわけで、テキヤに入ることはなかったが、のちにタイの寺祭りなどに行っても、心を動かさた記憶がよみがえる。テキヤとは無縁だったが、タイのカンボジア系音楽「カントゥルム」の一座といっしょに、トラックの荷台に乗って村祭りに出かけたことはある。祭りの高揚と祭りの後の寂しさを、一座の仲間とともに味わった。
 小沢昭一は写真家でもあった。父は写真館を営む写真家であったが、小沢が写真を撮り始めたのは中年になってからだと思う。初めは、単なる趣味のひとつであったらしい。ある日都内で撮影していたら、偶然、浅井慎平が通りかかり、「小沢さん、こういう場合は・・・」と、小沢のカメラの絞りとシャッタースピードを決めた。そのまま撮影したら、いかにもプロの写真家が撮ったような写真になったが、小沢は「つまらない」と思った。素人がプロみたいな写真を撮ってもつまらない。自分しか撮らない写真、自分にしか撮れない写真というのが、自分の方向なのだと思った。そういう小沢の写真が1冊にまとまったのが、『珍奇絶倫 小沢大写真館』(話の特集、1974。ちくま文庫版あり)であり、その後に撮影した写真から芸人の姿だけを集めたのがこの『芸人の肖像』である。写真に対する小沢の考えは、素人の旅行写真にも有効な考え方だ。素人がプロのような写真を撮ろうとするのは無駄な努力だ。素人でも、被写体を選べば、プロ以上の写真になる。
 テキヤで思い出したのは、映画「男はつらいよ」のことだ。メモとして、ここに書いておこう。この映画のシリーズが初めて公開されたのは1969年のことで、高校時代に少なくとも3作目までは見ている。そんなことを覚えているのは、高校時代の美術の時間に、この映画の話をしたことがあるからだ。高校の芸術の時間は、音楽、美術、書道の3科目からの選択で、私は美術を選んだ。授業時間のほとんどは「作業」だから、雑談をしている時間は充分にあった。この科目で初めて顔を合わせる生徒もいて、名も知らぬ生徒たちとの雑談から、そのひとりが映画マニアだと知って、何かのきっかけで「男はつらいよ」の話になった。
 「あの映画は、つまり『無法松』なんだよ」と彼が言った。
 「なるほど。だから、車か」
 という会話をしたことを覚えている。「男はつらいよ」は、かなわぬ恋を描いた「無法松の一生」をモチーフにしたという説明を聞いて、謎が解けた。人力車夫が主人公ということで、「男はつらいよ」の主人公の苗字は車。車寅次郎の寅次郎は、映画監督斉藤寅次郎から。
ずっと後になって、この話を知り合いにしたら、「原稿にしたいんだけど、その情報の出典は?」と聞かれて困ったことがある。ヤツの情報源はたぶん「キネマ旬報」あたりなのだろうが、それを調べるために古い「キネマ旬報」を調べる気はない。
 謎は偶然に解けた。「男はつらいよ」を特集したテレビ番組を見ていて謎が解けた。「男はつらいよ」は映画の前に、フジテレビでドラマになっている。フジテレビのプロデューサーが新しいドラマを考えていた。「愚兄賢弟」とか「賢兄愚弟」といった物語のパターンがあるが、「愚兄賢妹」というドラマを考えて、それをタイトルにした。しかし、「タイトルがあまりに堅い」という批判を受けて、北島三郎の「意地のすじがね」という歌にある、「つらいもんだ男とは」という歌詞にヒントを得て、ドラマタイトルを「男はつらいよ」に改めた。
 この「愚兄賢妹」の物語の骨格に、「無法松の一生」の要素を組み合わせたのが、「男はつらいよ」という解説が、当事者によってテレビ番組で語られた。おそらく、「男はつらいよ」の研究資料などにすでに書かれていた事実だろうが、映画マニアのおかげで、私は1970年の時点ですでに知っていた。