738話 机に積んだままの本の話をちょっと その4


 ツアー研究の欠けた部分


 観光学の研究書として、ツアーを取り上げたものが何冊かあり、行きがかり上、その、何冊かを読んだのだが、どうもパッとしない。統計の数字と外国の学者の論文引用が続き、知る歓びがないのだ。先日買った専門書、『パッケージ観光論 ―その英国と日本の比較研究』(玉村和彦、同文舘、2003)は、団体旅行の日英比較論なのだろうと思い、たしかにそういう本ではあるが、カッカソウヨー、「なーるほど」と感激するような新事実はない。
 この本を読んでみたいと思ったのは、ツアーの食事の日英の違いが知りたかったからだが、そういう記述はまったくない。あるいは、ツアーの裏資金についても知りたかったのだが、土産物屋からのリベートについてはわずか数行書いてあるだけで、イギリスのツアーでもやはり、リベートがあることがわかったのがかすかな収穫であった。
 この世に、旅行添乗員が書いた本は山ほどあり、旅の楽しさを語っていても、「裏のカネ」について書いた人は、おそらくひとりもいない。旅行業者も観光研究者も書かない。観光研究というのは、観光でカネ儲けする業者の学問だから、業界の負の部分は書かないのだ。
 わずかな例外が、『無一文の億万長者』(コナー・オクレリー、山形浩生・守岡桜訳、ダイヤモンド社、2009)だろう。この本は、DFS(デューティー・フリー・ショッパーズ)の創業者チャック・フィーニーの物語で、会社を売却したからもういいだろうと、なんでもしゃべってしまった。「ホントかよ」といった裏側の話もでてきて、実におもしろい。例えば、「当社がグアムに空港を作るから、そこでの独占営業権をくれ」と言って、グアム政府と交渉して契約を実行したとか、香港店進出に対して、地元の土産物屋との対策秘話など、旅行者が使うカネの行き先に関する事実が暴露されている。書名の「無一文」というのは、稼いだカネはほとんどすべて寄付してしまったので、億万長者の稼ぎがあっても、無一文だという意味だ。この本は実におもしろいのだが、予想に反してあまり反響はなかった。まったく残念だ。日本人旅行者が、なぜニナリッチとブランデーのナポレオンばかり買ったのかという裏事情も、売った当事者が語っているのにねえ。
 旅行者が旅先で使うカネの行き先は、ガイドに渡るものと、ガイド・添乗員・旅行会社に渡るものなどいろいろある。
 例えば、食事。ツアーの食事はあらかじめ決まったメニューがあり、その料金はツアー代金に含まれている。しかし、飲み物は別料金だ。バリとバンコクで目撃した実例なのだが、ガイドは「ビールは1000円です。私がまとめて支払います」などといって、客から代金を集める。客はメニューなど見ないから、ビールがいくらなのか知らない。仮に、ビールが200円で、8本売れたとすると、差額の6400円がガイドの儲けだ。昼と夜の2回、こういう商売をすれば、数日で数万円の儲けになる。現地の勤め人の月収が数日ビールを売るだけで稼げる。
 もっと大きな儲けは、土産物屋からのKB(キックバック)と言われるものだ。店で客が使った金額の何パーセントかが、ガイドや添乗員や現地と日本の旅行会社に支払われるシステムになっている。したがって、ツアー日程表に、「市内観光で、2軒のお土産店に立ち寄る決まりになっております」などという「規則」が書いてあったり、タイのプーケットツアーで、「バンコク市内観光に参加する場合は、ツアー料金が5000円引きになります」という注がついていて、驚いたことがあった。市内観光に参加すると、旅行代金が安くなるのですよ。
 欧米のツアーはこの程度のKBなのだが、アジアの場合は「女で稼ぐ」という方法がある。今は昔の話だが、かつては大型観光バスで日本人の団体が女を買いに来たという時代があった(今もあるかどうかは知らない)。バス1台にガイドがひとり、40人の客がほぼ毎夜女を買ったとすると、ガイドにとんでもない副収入をもたらす。顔見知りのガイドは、年末年始の営業だけで、新車を買った、KBだけで数百万円の収入だったわけだ。車を買ってひと月もたたずに、ばくちで負けて車を売った。「いいんだよ、車なんて、すぐ買える」。
 女を売った代金は、ガイドだけに戻されるのではなく、添乗員や地元や日本の旅行会社に払い戻される。そのカネで旅行会社を支えている。それが、ツアーの安売り競争をせざるを得ない弱小旅行会社の商法なのである。実費が7万円かかるツアーを6万円で販売せざるを得ないので、利益を出すにはこういう方法しかなかったのだ。実費を販売価格にするツアーを、業界用語では「ゼロ発進」というらしい。利益ゼロからの旅行商品という意味だ。
 上に書いた旅行業界話には、さまざまな例外や別の条件などがあって一様ではないし、ひどい実例もまだまだあるようだが、私は団体旅行とも旅行社とも無縁で生きてきたので、実情をよく知らない。客を土産物屋に閉じ込めて、一定時間外に出さないという店もある。そういう話の実体験を書く元添乗員はいるだろうか? 添乗員が書いた物語のほとんどは、無害な創作だろう。