744話 大学講師のレポート  その1


 出席はとらないが 上

 ひょんなことから大学の講師になって、もう10年以上たつ。立教大学観光学部兼任講師というパートタイム勤務である。科目名は一応「トラベルジャーナリズム論」ということになってはいるが、それがどういう学問かという定義などない。自分で適当に解釈して、しかしちょっと心配なので、授業を始めて数年後に、「こういう授業をやってますが・・・」と学部長にお伺いを立てたら、「どうぞご自由に」という、まことにありがたいお言葉をいただいたので、好き勝手な授業をしている。
 授業は「旅行」を主軸にしたが、ガイドブックで扱う事柄を最低限の範囲と考えても、言語や気候風土、政治や経済や、宗教や文学や音楽や食文化や建築など、ありとあらゆることが関係してくるので、結局のところ、「何をやってもいい」というのは正解なのだと確信している。「トラベルジャーナリズム論」を狭義に考えれば、旅行ガイドブックや紀行文や旅行論、雑誌などの旅行情報、テレビの旅番組などを取り上げて検討・考察するのが正攻法なのだろうが、実は、これは教師にとっても学生にとっても非常に難しいのだ。例えば、ガイドブックの比較といっても、日本を扱った韓国語と中国語(中国と台湾の両方)の旅行ガイドブックでは、それぞれどのような解説文があって、どう違うのか、ホテルやレストランの選定、買い物ガイドの分析など、私には興味があるテーマではあるが、私には授業をやる能力はない。旅行者の意識と旅行情報を熟知していないとガイドブックを解読できないので、外国語が堪能な人ならできるというものではない。学生もほとんど理解できない授業になると思う。ちょっと前に、この雑語林で、スペインにおける観光地の変遷を取り上げて、「バルセロナの台頭」を少々書いた。内容的には極めて易しい話なのだが、大学生が興味を持つテーマだという確信がない。
 「どんなことでも授業になる」と居直って、新米教師はとにかく歩き出した。「方針」というほど立派なものではないが、一応決めたことはある。出席のことだ。
 出席をとることにして、出席点も加味して成績をつけることにすれば、授業を受ける気がまったくない学生も教室に来る。すると、寝ているか、ゲームをしているか、おしゃべりをしているかというようなことになり、教室が落ち着かなくなる。ざわざわした雰囲気が嫌なので、「出席は取らないから、話を聞く気がないなら、教室に来ないでくれ」と宣言した。
 ほかの大学で教えている知り合いの教授たちと雑談していると、私のこの方針は、どうやら「時流」に遅れているらしい。文部科学省の方針は、「出席を厳しくとるように」ということらしいが、ほかの省庁も関係している。例えば、管理栄養士は厚生労働省の指導下にあるのだが、大学でその資格をとるためには「厳しく出席をとること」と大学に指令がいく。ほかの資格に関する授業でも同様で、関係各省庁が厳しく口を出すようになると、「そういう資格とは関係のない科目はいい加減でいい」ということにはならないので、全体的に「出席が厳しくなる」という傾向にある。補助金が頼りの大学は、お役所の指導は十二分に従う姿勢を見せるのが生き残る道なので、「聞き分けのいい大学」になる。
 知り合いが勤務しているいくつかの大学で、自動出席記録機の話を聞いたときはびっくりした。教室の入り口に、駅の改札口にあるような液晶パネルがあって、学生証をかざすと、年月日、授業科目、学生番号、学生名などが、記録されて、大学のコンピューターに保存されるという。
 私が授業をしている大学では導入されていないので、この機械に関する詳しいことはよく知らないのだが、友人知人たちの話によれば、出席をとる手間が省けると喜んでいる教師もいるが、そのために導入したわけではない。役所に恭順の意を表すとともに、大学が学生を完全に把握するためでもあるらしい。欠席しがちな学生には大学から指導をする。カネと手間をかけて集めた学生なのだから、中退されたら大学は困るのだ。あるいは、日本で働くことを目的に来た外国人が、学生ビザを隠れ蓑にフルタイムで働くことを防ぐために、出席を厳しくするという目的もある。さまざまな役所の思惑があって、出欠を厳しくとるようになったようだ。
 幸せなことに、私が授業をしている大学では、「出席は取らない」という方針は、いまもまだ続けることができる。それはありがたいのだが、出席をとらないと、「あの科目、ちょろいぜ」ということになり、履修者が増える。毎年200人以上履修(登録)するから、大教室での授業になり、毎年200人のレポートを読まされることになってしまった。ひとり、1000字のレポートとしても、1000字×200人分=20万字。400字詰め原稿用紙にして500枚は、単行本1冊分、新書なら2冊分の、素人の文章を読まされることになる。神経を集中して読むので、体の芯までくたびれる。苦しいほどの疲労感に襲われるが、大学からは特別な慰謝料は支払われない。学生が10人だったら、楽だよなあ。