756話 インドシナ・思いつき散歩  第5回


 ハノイに飛んだ


 バンコクでいくつかの用を済ませて、ハノイに飛んだ。散歩にふさわしい街として、その時の気分ではハノイが最高点を獲得していた。わかりやすく言えば、「気分はハノイ」だったのである。バンコクハノイ間の移動方法やルートが、今回の旅でもっとも考えた部分だ。考えられる移動方法は、次の3種だ。
 1、往復陸路
 2、空路+陸路
 3、往復空路
 もっとも費用がかかるのが1で、もっとも安いのが3だ。初めは2を考えた。空路でベトナムに入り、帰路は鉄道やバスでバンコクに戻っているというものだ。この方法を選ぶと、ベトナムのビザが必要になる。ベトナムは移動に時間がかかるので、絶えず移動しているような旅になりそうで、さて、どうするかと考え、ベトナム北部にゆっくり滞在することを優先し、往復空路とした。インターネットの情報を総合すると、陸路の片道移動交通費は、空路の往復航空券代とほぼ同じくらいらしい。だから宿泊・食事の費用を考えれば、いっそう高くなる。旅費が高くなるのはまあいいのだが、移動ばかりではいやだという理由で空路移動に決めた。
 ベトナムに行くのは2度目だ。以前に、サイゴンなど南部を旅したことはある。あのころは、やっとのんきにベトナム旅行ができる時代になったばかりで、ビザ代がけっこう高かった。十数年前だったかなあと思い、改めて調べてみると1995年だった。おお、20年前だ。私はすでに、20年前を「大昔」とは思わない年齢になっている。
 20年前のサイゴン旅行は、全体的にはおもしろかったが、「ベトナムはインドだ」という印象が強かった。街のどこを歩いても、熱気で加熱された糞尿の臭気に包まれていて、街全体が公衆便所のようだった。いや、「公衆便所のようだった」のではなく、事実、歩道が便所として利用されていたのだ。散歩中に、その排泄現場を何度も見ている。ベンタイン市場前の広場は、夜になると路上生活たちの寝室になり、その周辺が便所になっていた。だから、「サイゴンは便器だった」と書いた(『タイ・ベトナム枝葉末節旅行』めこん、1996年。以下『旅行記』と表記)。
 物売りのしつこさも、インドだった。「いらない!!」と何度言っても、めげない。いつまでもつきまとう。「あっちへ行け!!」と大声で言っても、馬耳東風、なにくわぬ顔でついてくる。飯を食っていても、コーヒーを飲んでいても、私の前にしゃがみ込んで物を売ろうとする。「この粘り強さが、ベトナム戦争の勝利を導いたのだなあ」とは思ったが、印象としては極めて悪い。
 ベトナムで感動したのがパンのうまさであり、そのパンを食べる朝飯がいい。バゲットがすばらしい。ベトナムに行く前に、タイのベトナム系住民が住む地区で、ベトナム式の朝飯を食べて感動していた時期なので、サイゴンで朝食を食べた感動を、 『旅行記』にこう書いている。
 「朝食は、本場でベトナム朝めし。二〇センチほどのフランスパン一本、アルミ鍋に入った目玉焼き二個、コーヒー。パンがうまい。感動的にうまい。うまい、うまい、うまいと一〇〇回書きたいくらいだ」と、このまま書き写していくと、ベトナムのパン礼賛が1000文字以上続く。私は米に対する禁断症状というのはあまり強くない。長期間、米の飯を食べなくても苦痛を感じることはないが、パンとコーヒーのない生活はつらい。コーヒーはなくても、うまい紅茶があればなんとかなるが、パンがない生活はつらい。米のない生活よりも、米しかない生活のほうがつらい。日本の漁村で、民宿に泊まりながら取材していたときに、つくづくそう感じた。朝から、米はいやだった。パンは、日本的なふかふか食パンではなく、バゲットやドイツ式の堅いパンが好きだ。
 私は食文化の文章は書くが、ある食べ物の描写を詳しくするということはめったにない。食べ物の紹介や説明は書くが、店や料理の礼賛はまず書かない。料理人個人にはまったく興味がない。普通の食べ物本の記事は書かない。それが、ベトナムの朝飯とパンのうまさに感動して、『旅行記』では、つい書いてしまった。熱帯湿潤アジアにうまいパンはないと思い込んでいたので、そういう思い込みが見事に爆破された感動だった。
 実は、今回ベトナムに行こうと思った理由のひとつは、ベトナム朝めしとの感動的な再会を期待してのことだった。
 普通の紀行文なら、ここでベトナムの歴史や経済、気候風土など基本的な解説をしておくべきなのだが、そんなことをすれば、このコラムはどんどん長くなる。ここはインターネット上の紀行文だから、調べたいことがあれば読者が自分で調べればいいと考えている。知りたいことや知りたいレベルは人によって違うのだから。自分で調べる気がない人や、自分では調べられない人は、このブログを読んでいないと思う。