757話 インドシナ・思いつき散歩  第6回


 バイン・ミー


 ベトナム語でパンを、バイン・ミー(banh mi)という。バインは粉物の総称、ミーは小麦をさし、バイン・ミーでパンの意味になる。20年前にサイゴンで食べたパンのうまさを、再び『旅行記』から引用する。
 「タイ、イサーン(東北部)のベトナム人が多く住んでいる街やラオスでもフランスパンを食べているが、これほど感動したことはない。パンそのものの味もちがうが、それよりもパンの扱い方がちがう。サイゴンでは、客にパンを出す前に軽く火であぶり、『パリッ』とさせている。フランスパンの皮の堅さが心地よい。タイやラオスで食べたフランスパンは、湿気をたっぷり吸っていた」
 ハノイに着いて、毎日歩いた。散歩をしながら、バイン・ミーを出す朝飯屋の屋台、サンドイッチにする屋台を探したのだが、見つからない。サイゴンでは探したことがない。探さなくても、路上のいたるところにバイン・ミーがあったからだ。サイゴンを離れて小さな街に行った時でも、おばさんはパンを炭火で軽くあぶってから、客に出していた。たんぼを見ながらうまいバゲットが食べられるとは思っていなかったので、これまた驚きと感動だった。東京でも、こんなにうまいバゲットはなかなか食べられない。
 南部の田舎町にもあったバイン・ミーが、首都ハノイでなかなか見つからない。探して、やっと見つけ、勇んで注文し、目の前のバイン・ミーにかぶりつくと、涙が出そうだった。うれし涙ではない。くやし涙だ。「なんだ、これ。こんなものは、バイン・ミーじゃない。あまりにひどいぜ!」という気持ちだった。どういう味だったかといえば、日本のスーパーのパン売り場などで売っているビニール袋入りのバゲット風のパン、ふにゃふにゃのパンだ。別の店で、バゲット風の外見でコッペパンに似た形のパンがあり、サンドイッチにしてもらったら、触感も味も、まさにコッペパンによく似たもので、やはり「なんだこりゃ!」。ホテルの朝飯にバイン・ミーがあった。ふにゃふにゃだから、トースターであぶったら、わが身がパン粉製造機となった。あぶったそのパンを噛むと、ボロボロパラパラと崩れ、テーブルの上がパン屑だらけになった。私はこんなものを食べたくてベトナムに来たんじゃない。いったいどうしたわけだ。
 時間はずっとあと、ベトナムからタイに戻ってきてからの話だ。場所はバンコクのイサーン(東北部)料理の、場末感たっぷりの屋台。私がヌア・ヤーン(牛肉の網焼きステーキ)とラープ・ムー(豚肉の辛味和え)ともち米の飯を夕めしにしていると、私の斜め前に座った若者が皿に山盛りにしたホイ・クレーン(赤貝)だけをひたすら食べている。半生状態だから、赤い液体が皿に落ちて血が溜まっていくようだった。初めはタイ人だと思ったのだが、英語で注文しているのが気になった。大学生と言ってもいいくらいの若者だが、旅行者の服装ではない。ポロシャツ姿のこざっぱりとした服装だ。この屋台は、ほこり舞う土の上に店を開いていて、旅行ガイドではまず紹介されない場所だ。旅行者や駐在員が来るような場所ではない。
 半生赤貝を食べ終わった若者は、もち米の飯だけ注文し、ひたすら飯だけを食べている。見かねた私は、まだ残っているラープを彼の方に差し出し、「よかったら、どうぞ」と英語で言ってみた。
 「どうも」といって食べている。「ついでに、それもいただけますか?」といって彼が指さしたのは、私が嫌いな香草類だった。
 「ああ、ぞうぞ。タイ料理は何でも食べられる?」
 「昆虫はいやだな。あとは辛すぎなければ、どんなものでも」
 英語がじつにうまい。アジア系のオーストラリア人とかイギリス人かなと想像したが、しばらく話しているうちに、だんだんアジア訛りで出てきた。少なくとも、欧米生まれじゃなさそうだ。
 「出身は、どちらですか?」と聴いてきたので、「日本。あなたは?」と聞き返した。
 「ぼく、ベトナム人です。タイ人に間違えられるけど」
 だから、私の香草もうまそうに食っていたのか。私はベトナムからタイに戻ってきたばかりだと言い、ベトナムの話をした。サイゴンハノイの比較に興味があった。彼はサイゴンで生まれ育ち、今はハノイに住んで4年目だという。だから、どちらの街のこともよく知っている。
 私の今回の旅はハノイがある北部だけだと言うと、「ハノイはどうでした?」と聞いてきた。
 「すばらしい街だったよ。ただね、唯一の不満は、うまいバイン・ミーが見つからなかったことだよ」
 私の話を聞いて、彼は破顔、爆笑、我が意を得たり。
 「そうでしょ、そうなんですよ。ホントにそうです。ハノイの連中は、バイン・ミーの何たるかを知らない。そりゃもう、ひどいもんですよ。ハノイにはうまいバイン・ミーなんか、ありませんよ」
 それは、大阪人が「東京のうどんはひどい」という口調にも似ていて、腹の底からのハノイ批判だった。
 ハノイのバイン・ミーに関する考察は、ちょっと旅しただけの、よそ者の外国人の印象が、かなり正確なものらしいとわかった。ベトナムの食文化でよく紹介されるバイン・ミーは、正確には「サイゴンなど南部でよく食べられている」とすべきだとわかった。それはそれでいいのだが、うまいバイン・ミーを期待してベトナムを再訪した私の立場はどうなる。これがのちの「ベトナム朝めしを求めて彷徨」となるのだが、その話はまたあとで。