759話 インドシナ・思いつき散歩  第8回


 サパ


 ハノイに着いたら、すぐにほかの街に出ようと思った。ハノイが気に入らないというのではない。このままハノイにいると、「地方に行こうか」と思ったころには時間切れになるかもしれないと思ったから、先に「ハノイ以外の場所」も見ておきたかった。ハノイを探るには、それ以外の地も知っておく必要がある。
 「どこかに行こうと思っているんだけど・・・」
 ホテルのロビーにあるツアーデスクのスタッフたちとちょっと世間話をしたあとにこう切り出すと、すかさず「ハロン湾がいい」と彼らは定番観光地の名を口にした。ハノイから観光客送り出すもっとも稼げる場所だ。高級ホテルとクルーズを組み合わせると、結構な金額になる。
 「いや、あそこには行かない」
 「なぜ?」
 「観光地が嫌いだから」
 ケゲンな顔をしている。理解できないようだが、私は観光地然としている観光地が苦手だ。カネを持ってきた旅行者から、「さあ、徹底的にふんだくるぞ」と待ち構えているような場所に行くと、不愉快になってケンカをしかねない。だから、大観光地にはなるべく近づかないようにしているのだが、たぶん理解してもらえないだろう。
 「南に行くなら、ダナンやフエだけど、時間がかかります。鉄道が好きでも、片道は飛行機にした方がいいです。ぼくは北のサパがいいと思いますよ」
 「どうして、サパ?」
 「ぼくの故郷だからです」
 そのセールスに乗って、すぐさま翌朝発のサパ行きのバス乗車券を買うことにした。サパはベトナムの北端、最高峰のファンシーパン(3143m)があるラオカイ省のサパ県のことで、その山の向こうは中国雲南省だ。
 朝7時発のバスは、ちゃんと整備されているようで、快適に走っていく。2段ベッドが両方の窓側と中央の計3列に並んだ構造のバスの形は、おそらく中国で初めて作られたのだろう。完全に体が横になるわけではないが、「ほぼ横臥」とはいえる。これが快適かというと、堅い体を折って、シートに潜り込むのがちょっとつらい。体重100キロの人も、身長180センチ以上ある人も、体の堅い人も皆、柔軟体操のような要領で、パイプで囲まれたシートに身をこじ入れるのはつらいはずだ。
 平地の道路は最近整備されたそうで、6車線の広い道で快適だ。しかし、山岳部に差し掛かると2車線になり、バスの速度は一気に遅くなる。坂道だからというよりも、前を走るトラックが息を切らしてノロノロと走っているからだ。「走る」というよりも、「歩く」だな。トラックの多くは中国製かベトナム製だろう。過重積載ということもあるから、青息吐息でやっと坂を登っているのが、トラックの性能の問題かどうかはわからないが、とにかくのろい。時速5キロを切っている。
 坂道をのんびり走るバスに乗っていて、タイを横断した時のことを思い出した。ビルマ国境の街メーソートに行ったあと、さてこれからどこに行こうかと考えていたら、このまま東に進んでいったらおもしろいかもしれないと思った。ビルマ国境からラオス国境のムクダーハーンに至る、直線距離にして700キロほどの旅を考えた。田舎には木造おんぼろバスがあって、「走るのか?」と心配になるほどの落ちぶれた姿なのだが、平地は時速80キロ以上で暴走する。「時速80キロ」というのは私の想像で、こんなバスにちゃんと動くメーターなどなにひとつなく、実際の速度など誰も知らない。平地が多いタイでも、北に行くと途中には小山程度の起伏もあって、坂道にさしかかったとたん、時速5キロ以下に落ちた。トルク不足で登坂力がないのだ。坂がもう少し急になると、バスはついに登れなくなり、停止した。乗客全員がバスを下りて、坂を歩いて登る。そのあとを、バスは断末魔の唸り声をあげて坂を登っていく。そのエンジン音に比べて、坂の角度がゆるいというのがなんとも情けない。ひと昔前のタイの旅は、そんなだった。
 2015年のベトナムでは、まだ新しい高速バスだということもあるだろうが、バスは坂をものともせず登っていくが、トラックはあえいでいる。大きくカーブしている山道だから、追い越しは楽ではないが、チャンスを見てトラックを抜き、ハノイを出て6時間後に、標高1600メートルのサパに着いた。上着が欲しくなるほどの、涼しい気候だ。