760話 インドシナ・思いつき散歩  第9回


 暖炉のある宿


 サパの街は、家が建ち並んでいる地域はせいぜい2キロ四方だろう。観光客がうろうろしている中心地は200メートル四方くらいと狭い。山に囲まれた街で、カトマンズのミニチュアのような高原の街かと想像していたのだが、ホテルのスタイルから考えれば、ベトナム人はスイスの街をここに作ろうとしているような気がする。道路事情が良くなったからか、バックパッカーよりも団体観光客が多かった。高級リゾートホテルはあるが、街の中心地にはまだ露天市場もある。おそらく、今後次々とリゾートホテルができていくだろう。サパは、Sa PaあるいはSapaと書くのだが、山間でこの街の名を書いた看板を見ると、どうしてもSpa(温泉地)に見えてくる。山の温泉地という感覚は、たしかにある。サパの街は、こんな感じだ。
http://grrrltraveler.com/countries/asia/vietnam/things-to-know-about-sapa/
 大声が聞こえるのは隣国中国からの観光客だが、韓国語と、驚いたことにタイ語もしばしば耳にした。ホテルの前を歩いていたら、「ロット、マーレオ、マーレオ」(車、来るよ、来るよ)というタイ語が聞こえ、振り向いたら背後に大型バスが迫っていた。ホテルの前でバスを待っているタイ人客に、ガイドが声をあげたらしい。「タイ人の店  安くします」とタイ語の看板を掲げたスポーツ用品店もあった。小さなベトナム料理店で、イギリスから来た老夫婦と話をしながら夕食を食べていたら、どやどやと店に入ってきたのは6人の男女で、会話からタイ人だとわかった。皆30歳前後で、高校か大学時代の友人だろうか。楽しそうに食事をしている彼らを見ていて、大阪の自由軒を思い出した。タイ人の観光客は多いが、ひとりやふたりの個人旅行者はまだ少ない。
 タイ人に限った話ではないが、アジア人は団体で動いていないと寂しくてたまらないのだ。経済的に可能でも、アパートを借りてひとりで住むということは、寂しいのでもなかなかできない。旅行もそうだ。例外的に、昔から外国でもひとりで旅をしていたアジア人は、日本人だけかもしれない。
 サパに1泊して、街も宿も気に入った。ベランダから高い山を眺めている体験は、いままであまりしたことがない。自動車が通る広い道にはたしかに観光客は多いが、路地に入り込めば、静かなものだ。もう1泊したくなり、宿の従業員の若い女の子(10代後半だと思う)に、「今日も泊まるよ」と告げると、「Yes」と返事したのに、その1時間後に「出て行ってほしい」と言いに来た。
 「さっき、もう1泊すると言ったら、キミは『はい』って返事したじゃない」
 「あたし、英語できない。わからないで、返事した」
 なあんだ、そういうことか。英語がよく理解できなくても、「Yes,Yes」と返事する心理が私にもよくわかる。まあ、しょーがねーなーという気分だ。
 彼女はつたない英語をしゃべって誤解されるのを心配して、スマホを私に示した。私が単語を選んでゆっくりしゃべれば、彼女はかなり理解できることはわかったが、仕事上の行き違いを防ぎたいようで、慎重になっているのだろう。ベトナム語で書いた文章を英語に自動翻訳したスマホの文章を私に見せた。私が首を傾げると、何度か作文に挑み、私にわかりにくい英語の文章を見せて、「OK?」とたずねた。スマホ会話は初体験だ。
 「土曜、日曜は、部屋代が高くなる。もし、きょうも泊まるなら高くなる」といった意味だと推察できる文章だが、”I am out of my room.“が理解不能だ。もちろん彼女の英作文ではなく、自動翻訳文だ。週末は観光客が多く来るので、部屋代を高くしたい。それが嫌なら出てくれと言いたいのだろうと推察した。ここはベトナム人観光客も多いので、週末に混雑するらしい。「ほかのホテルに当たってみる」と言って宿を出たが、どの宿でも同じように高い料金を請求するだろう。これから1時間ほど部屋探しに歩き回るのは嫌だなと思い、料金交渉をしようと元の宿に戻った。
 ロビーにマネージャーだという女性がいて、英語ができるので今朝のやり取りを説明すると、私の理解がまあまあ正しかったようで、スマホの自動翻訳はなかなか役に立つことがわかった。マネージャーは、もしきょうも泊まりたいなら、同じ料金にするから部屋を変わってくれという。高山を見渡すベランダつきの4階の部屋から、隣家の塀しか見えない1階の部屋に移ったが、それでもいい。どうせ寝るだけだ。4階に上がらなくても済むから楽だ。
 ちなみに、この宿はちょっとおもしろいつくりになっていた。各部屋に暖炉があるのだ。4階の部屋には小さな暖炉があり、移った1階の部屋には暖炉跡があった。煙突は隣の部屋との共用で、下の部屋とも共用になっているのだろう。標高1600メートルの高原は、冬には相当冷えるということだろうと思ったが、資料を読むと、冬でも同じ時期の東京の気温よりもちょっと温かいようだ。それでも、一年中熱い南部ベトナムに住む人たちには天国の涼しさだろう。