764話 インドシナ・思いつき散歩  第13回


 2等車の長旅 前編


 話は、サパからバスに乗りラオカイに着いた時に戻る。バスは駅前で止まったので、すぐ駅に行った。なんとなく薄汚れた駅舎だろうというイメージだったのだが、できたばかりの近代的な駅なので驚いた。外から待合室もよく見えるガラス張りの駅舎だ。”Ga Lao Cai”という文字がはっきりと見えた。駅を表す”Ga”は、フランス語の”Gare”からの借用語に違いないと思った。あとで調べてみれば、たしかに元はフランス語だ。Tramも駅を表す語のようだが、駅の看板では、Gaを使っている。
 そのまま夕方までラオカイの街を散歩しながら時間をつぶし、夜行列車かバスでハノイに行くことも可能だが、車窓からの景色が見られないのでは旅をするおもしろさはない。私は貧乏旅行者ではあるが、夜行列車に乗って宿泊費を節約しなければいけないほど貧窮してはいない。昼間走る列車は、朝10時5分発の2等列車が1本あるだけだ。2等車がどの程度のものかは知らないが、いままで私が経験した鉄道旅行よりもひどいということはないだろうから、それはそれでおもしろそうだ。数年前までは、さまざまな分野に外国人料金が定められていたが、いまはすべて廃止された。ラオカイからハノイまで、約300キロ。この2等列車(エアコンなしの全車2等で、鈍行に近いらしい)で9時間半くらいかかるという。これで、12万2000ドン。とてつもない料金のようだが、汁麺の3〜4杯分の料金で、日本円に換算すれば650円ほどだ。ちなみに、夜行列車のもっとも高い寝台は、日本円にして3万5000円ほどする。
 駅で翌日の切符を買い、駅前旅館に向かった。バスが駅に着いた時から客引きをしていた食堂のおばちゃんの顔を立てて、昼飯を食べに行ったら、「あら、荷物は?」と言う。「あそこのホテルに泊まることにした」と駅前旅館を指さすと、「なぜウチに泊まらないの!」と強い口調で言った。そこで初めて、食堂の脇がホテルだと気がついた。ステーションホテルだったのか。「ウチに来て!」というのが、食堂の客引きだとばかり思っていたのだが、ホテルの客引きだったのか。
 翌朝はいつものように、夜が明けかけた頃に起き出し、近所を散歩した。ありがたいことに露店のコーヒー店がこんな時間にすでに営業をしていて、ゆっくりコーヒーを飲み、また散歩した。車中では食事をしない習慣なので、出発前にフォー(コメが原料の麺の汁そば)を食べておいた。
 私が乗った2等車は、窓にガラス戸はなく、金属製よろい戸と可動式の金網がついている。こういう車両はインドなどで体験している。窓に金網がついているのは、風通しを良くするとともに、窓からの上車を防ぎ、泥棒除けという意味もあるようだ。駅のホームから車内に手を伸ばせば、バッグなど簡単に盗めるから、安全策を考えないといけないというわけだ。
 座席はタイなどさまざまな地で乗っている木の長椅子だ。背もたれは垂直。片側が2席向かい合わせ計4人分、もう片側が3席向かい合わせの計6人分というのが基準だが、混んで来れば何人でも座るようになるだろう。座席の幅は少々きつめだが、向かい合わせの席との間隔は広く、乗客は少ないので、私はひとりで6人席に座っている。足を伸ばして前の座席に乗せようとしたら、やっと届くほど間隔が広い。足をちゃんと乗せようとすると、お尻が滑り落ちそうになる。私の足が短いのはもちろんわかっているが、日本の座席幅と比べるとはるかに広い。肉厚の尻のおかげで、木製椅子でも何の不満もない。足を伸ばしたり、あぐらをかいたりできるので、極めて快適だ。豪華列車には乗ったことはないが、この手の鉄道には乗り慣れているので、とくに驚くようなことはなにひとつない。いや、驚いたことがひとつあった。列車は定刻から遅れることなく、10時5分きっかりに駅を出たのが意外だった。ベトナムは、そういう国なのか。
 ラオカイはもう山の中ではないが、一面の水田が広がるような平地はない。低い山がいつまでも続き、山の斜面にトウモロコシやキャッサバが植えてある。丘と丘の間に少しは水田もあるが、その一部を養魚場や果樹園などに変えたようだ。そういう風景をずっと見ていた。同じような風景が続いても、飽きないのだ。家が見えたら、すばやく外観や周囲を見る。バナナが植えられていることはすぐにわかるが、果樹の種類は瞬時には判定できない。畑が見えたら、どういう作物が植えられているのか注目する。目はけっこう忙しいのだ。
 タイ中部なら、田植えをしている田の反対側では、刈り入れを終えた風景が広がっているということがあるのだが、ここはたぶん一期作なので、田植えと収穫を並行して行なうということはないのだろう。刈り入れを終えたばかりの田を見ると、稲の茎の半分くらいの位置で刈ったことがわかる。日本なら、土のすぐ上で刈る。穂苅りなら、穂のすぐ下で刈るはずで、中途半端な位置で刈った理由がわからない。植物鑑賞を楽しむには、植物や農業に対する私の知識はあまりに乏しい。
 バッグに入れてあるペットボトルの水をちょっと飲んだだけで、何も食べない。ゆでたトウモロコシや袋入りのスナックなどを売りに来るが、食べたいとは思わない。ただ車窓風景を眺めていられれば、それだけで幸せなのだ。何も食べず、出さず(トイレにも行かなかった)、一度も立ちあがらず、ただ座って車窓からの風景を眺めているうちに、夕陽が遠くの森に沈んでいった。