868話 患者様


 もう「昔の話」といってもいいのだろうが、初めてパソコンを使い始めたばかりのころだ。そのころ、原稿を書く上で、調べなければいけない細かい事項がいくらでもあった。例えば、ある本の正確な書名や出版社名や出版年、あるいは映画の監督名や公開年といったものや、いままで出版された旅行記のリストといったものだ。
 検索欄に「アジア 旅行記」などと書き込んで調べると、いくつもの情報にアクセスできたが、そのなかに箇条書きが続く読みにくいページがあった。「なんだ、これ?」と思っているうちに旅行記を書いたライターたちの名前が出てきて、そのあとに罵詈雑言が続いていた。理知もなければ、品性もない。洞察力も知識もないし芸もない。ただの、どーしようもないラクガキだった。それがうわさに聞いた「2ch」の最初にして最後の接触だった。
 前川健一に対する暴言、妄言、中傷も続くなかに、まるで前川本人が書きこんだような文章があって、笑った。
 「前川は、2chで書きこんでいるようなヤツから好かれたいとは思っていないと思うよ」
 そう、そのとおり。御名答。よくぞ言ってくれた。そのあとしばらく読み進むと、こういう書き込みもあった。
 「2chに書き込んでいるヤツらから絶賛されている人って、いないんじゃない?」
 そうか。人をさげすむことに快感を得ているヤカラのページなんだから、称賛賛美はないのか。
 私のような売れないチンピラライターは、中傷されたところで無視していればいずれ消えるし、大した騒ぎにもならないのだが、客商売の場合はそうはいかない。食品会社でもホテルでも病院でも、不特定多数の客(患者も客だ)を相手にする組織では、ネットの書き込みに対する態度を慎重に考えないといけない。だから、病院でも「患者さま」ということばが広まっている。
 「患者様」は、初めはラジオで誰かが言っていた「最近の変な言葉」のひとつだったのだが、そのうちに私が通院している病院でも「患者様」と言いだし、「ああ、これか」とわかった。先日のテレビドキュメントに、病院の朝の打ち合わせのシーンがあり、「この患者さんの場合は・・・・」とひとりの看護師が言いだすと、「『患者様』です。言葉使いに気をつけなさい」と看護師長が注意していた。「患者さん」は、いまや差別語あるいは「要注意語」になってしまったのか。
 世の中の、過剰な丁寧語の流行は、ネットの書き込みのような中傷に刺されないように身を低くしているという対応策のひとつである。
 商店街のなかの店にあった張り紙。
 「8月13、14、15日の3日間は、誠に申し訳ございませんが、夏休みをいただくことになりました。何卒よろしくお願いします」
 ラジオ番組で、あるベテラン・アナウンサーが作家をゲストに迎えたときのよくいうセリフ。
 「先生のご本は、いつも読まさしていただいています」
 こういうのを「さ入れ言葉」という。「ら抜き言葉」ほど指摘されてはいないが、過剰な丁寧表現だ。
 あるタレントが俳優との会話で。
 「あのドラマは、いつも見させていただいています」
 これを、「見ています」などと言ったら、浜田雅功ダウンタウン)の得意のセリフ、「えっらそーに!」や「上から目線で!」とネットでの批判を受けるかもしれない。そういう心配が、日本語を破壊している。
 たった今、ラジオから流れてきた政治家の話。
 「私の発言に対して多くのご意見を頂戴いたしまして、ここで感謝の言葉を述べさせていただく機会を頂戴したことを誠にありがたく存じます」。あー、いやだ。
世にはびこる過剰丁寧(過剰謙譲でもある)表現の元凶は、ネットの悪口対応策から始まったという説を何かで読んで、さもありなんと思った。