898話 イベリア紀行 2016・秋 第23回

 ポルトのとてつもなく安い飯屋


 街を散歩していると、前回の散歩を思い出す街角があって、「ああ、ここだ」などと懐かしくなる。かつて、たまたま食べたことがある食堂の前に立ったときは、やはり「ああ、ここだったなあ」と店全体を眺めた。店名はもともと覚えていない。うまかったという記憶もないが、安かったという記憶はある。遅い午後で、夕飯にはちょっと早いが、入ってみたくなった。メニューを見て、スープとステーキを注文した。
 客は、いる。グラスのビールかワイン1杯で数時間はねばる常連客だろう。年金暮らしの暇な年寄りの溜まり場になっている食堂だ。おしゃべりなはずのおばあちゃんたちも、毎日のことでとりたてて話題がないのか、ほとんど話しをしていない。顔見知りの誰かが店に来た時と出ていくときに、ちょっと言葉を交わすくらいだ。店の老人たちの行動を眺めながら、めしを食った。硬い肉を焼き、ひと口大に切り、なぜか肉を米の飯で隠すようにしてあるが、たぶん他意はないのだろう。量は問題ないが、塩味が強く、けっして「うまい」というものではないのだが、街中の、どこにでもある食堂のどこにでもある飯が、そういう料理だとわかったことは、食文化研究者としては「収穫あり」だ。私はグルメ探究者ではないし、料理研究家でもない。雑誌に食べ歩きエッセイを書くわけでもない。食文化を考えながら、漂うように旅する者だ。だから、「うまくもない物を食べる」という体験も、けっして楽しいわけではないにしろ、興味深いことではある。おもしろいのだ。料理だけ切り離して興味があるわけではなく、ましてやその料理を日本で再現しようという企画などまったくない。世界のどこかで、料理がある空間に身を置いているこういうひとときが、なんとなく心地いい。
 食後、支払いのレシートを見たら、計算したよりも安い。スープの代金が入っていない。
 「あの、スープが・・・」というと、おやじは
「 ああ、いいよ」と首を振った。
 まずい飯もおもしろいが、やはり、安くてうまい店と出会えれば、それにこしたことはない。

 散歩をしていて入り込んだRua do Bonjardimという通りには、安飯屋があることがわかった。店頭に張り出したメニューが、えらく安いのだ。たまたま入ったラメイラス(Lameiras)という店は、カウンターだけの小さな店で、安くてうまかった。のちに、この店が『地球の歩き方 ポルトガル』で、「安い食堂」として紹介している店だと知った。本当に、安くて、うまかった。
 すべてにおいて、文句のつけようがない店だった。「本日の1品」が1皿2.80から3.50
ユーロだ。パンはついてくるから、飲み物代を加えても、5ユーロでおつりがくる。昨今はやりの日本の表現なら、「ワンコインめし」である。店でサンドイッチだけ食べるならともかく、日本円にして、500円で料理を食べて満腹できる食堂はめったにない。この通り、Rua do Bonjardimには他にも安飯屋があるが、ここほど安い飯屋は知らない。
「本日の1品」で、もっとも安い料理は、私にも解読できた。”Tripas a moda do Porto”。Tripaは辞書では胃と腸の両方の意味があるようだが、これは牛の胃の煮物だろう。見ればわかる。イタリアなら、trippaは牛の第2胃(通称ハチノスのこと)だ。2年前、バルセロナの市場の食堂で食べてうまかった料理で、後日この料理をまた食べに行ったくらいだ。胃と豆(白インゲンか)をトマトで煮た物で、とうぜん臭味などまったくない。この名からして、ポルトの名物料理ということらしい。栄養のバランスを考えるなら、サラダの前菜をとるべきだろうが、量が多くなるので食べ切れない。食後にコーヒーを頼んだが、それでも合計は5ユーロ以内だった。
 翌日の夜も、この食堂に行った。スープを飲みたい気分だったので、メニューからなんだかわからないスープを注文した。カウンターに運ばれてきたのは、いろいろな野菜が入ったポタージュ風のスープだった。主菜は牛肉の煮込み・じゃがいも添え(パン付き)、ペットボトルの水、コーヒーで5ユーロをちょっと超えた。安い(が、あまりうまくない)。客のようすをちらちらと観察すると、たいていの客は、コップ1杯のワイン(0.7ユーロから)とひと皿の料理(パン付き)という注文が多く、やはり5ユーロ以内に収まる。日本の繁盛している食堂のように、客はさっさと食べて、まだ口をもぐもぐさせながら、ポケットからカネを取り出して、カウンターに置いて、すぐさま出ていく。ひとり客が多いから、のんびりおしゃべりをしている人は少なく、前菜からコースを組み立てて食事を始める客も見当たらない。1杯の酒とつまみか、ひと皿の飯を胃袋に入れて、家路に着く。こういう世界を、ハードボイルドというのではないか。
 街を散歩して、午後はカフェかホテルで本を読み、夕方になったらこの近辺の食堂に通い、「本日の定食」や「本日の一品」、1回の食事5ユーロ也(含むコーヒー)を食べて過ごす日々は、想像しただけで楽しそうだ。ポルトガルに、うしろ髪を引かれる。スペインのついでに「ちょっと寄る」と決めたポルトガルだが、立ち去りがたい。気温30度に近い日もあれば、朝から午後まで小雨が降り続いた日もあったが、どんな気候の日でも、ポルトガルは魅力的だ。
 しかし、明日、この国を出る。激しい雨が降る夜、スペイン最初の街となるビーゴのことを考えながら、ホテルで日記を書いた。

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 ポルトでは、マクドナルドでさえ美しい

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 さらば、ポルト