924話 イベリア紀行 2016・秋 第49回

 川を見に行く その5

 食後、バッグから地図を取り出し、現在地確認をした。つまり、「私は、今、どこにいるのか?」
 コーヒーを持ってきたおばちゃんに、「ここはどこ?」と地図を差し出した。私よりちょっと若いくらいのおばちゃんは、地図を手に持ったが、両手がどんどん伸びていき、「前にならえ!」の姿勢のようになった。
 「メガネは?」
 私は自分のメガネを指差した。おばちゃんは「いらないのよ」と言うが、見えないことは明らかで、隣りのテーブルでコーヒーを飲んでいるおばあちゃん4人組がなにやらチャチを入れ、爆笑になった。
 老眼鏡なしでは地図は読めないようなので、食堂の先の路地の名前を聞いた。
「あそこ、なんて言ったかね」というやりとりから、テーブルのおばちゃんたちとまた世間話が始まり、その内容はまったくわからないが、なんだかなごやかな時間を過ごしているようで、心がちょっと暖かくなる。
 「ここはポルトガル通り」
 おばちゃんが表の大通りを指さして言った。
 「ここを下って行けば、すぐ王宮よ」
 区分地図だから、ポルトガル通りの先は別のページの地図になる。改めて地図で確認すれば、そうだ。今朝渡ったセゴビア橋につながっている。
 「歩いて、1時間?」
 「ううん、20分」
 20分? 再び地図を見れば、それほど遠くはない。朝からずっと歩いていながら、コンパスの先のように、橋を中心に同心円上を歩いていたようで、数時間歩いて橋から2キロも離れていない。
 旅先の幸せな時間は、このようにおばちゃんやおばあちゃんとたわいもない時間を過ごしている時だ。若き美人たちが、こういうのんびりした時間を私と過ごしてくれることはないということとは別の意味で、おばちゃんたちと過ごす時間が楽しい。その理由はいくつもある。
 おばちゃんたちとの会話を好むひとつ目の理由は、話しかけてくれることだ。
 洋の東西を問わず、おばちゃんたちはおしゃべりだ。
 今泊まっている民宿のような小さな宿を切り盛りしているのは、私と同世代くらいのふたりのおばちゃんなのだが、私の姿を見つけると、とにかく話しかけてくる。私がほとんどスペイン語がわからないということなど気にもせず話しかけ、ところどころ話が通じるところがあると、一気にしゃべる量が増える。そうなると、こちらもなんとか話をしようと、単語を並べてインチキなスペイン語を繰り出す。
 朝、宿を出るとき、おばちゃんはわざわざドアまで来て、何か言う。きっと、「自動車に気をつけてね。楽しい散歩を」などと言っているのだろうが、出かけるときも、帰宅した時も、常に声をかけてくれた。あまり声を出すことのない外国の日常で、毎日何度も自分に声をかけてくれる人がいることはうれしいものだ。
 おばちゃんとの会話を好む二つ目の理由は、おばちゃんの声が聞き取りやすいからだ。
外国語を聞く場合、おっさんやあんちゃんやじーさんの声や話し方は聞きにくいことがあるが、おばちゃんの高い声は聞き取りやすい。外国語学習初心者には、声が通るのはありがたい。
 おばちゃんとの会話を好む三つ目の理由は、おばちゃんの説明はわかりやすいからだ。
タイで暮らしていたときに気がついたのだが、「これはなに?」とか「なぜそうするの?」といった質問をすると、おばちゃんたちの答えがわかりやすかった。その理由は、子供たちの「ねえ、どうして?」とか「あれ、なに?」といった山のような質問攻撃に毎日答えてきたからではないかと思った。その説明は正確ではないかもしれないが、タイ語が不自由な私にもわかるように説明してくれて、わかりやすかった。おっちゃんの説明は、たとえ正確ではあっても、わかりにくいことも多い。
 4つ目は、おばちゃんは衣食住に詳しいからだ。
私の関心分野は衣食住だから、おばちゃんたちは先生なのだ。野菜や果物の名前や、調理道具や、家庭料理の話。料理レシピ本では絶対に教えてくれない離乳食や病人食や老人食についての情報や、洗濯の仕方や干し方など、私が知りたいことを教えてくれた。
 だから、おばちゃんたちといっしょにいると、楽しいのだ。
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 左の塔が王宮。右手の大きな建物はアルムデナ大聖堂。