967話 大阪散歩 2017年春 第6回

 難波 大阪の病院へ その1

 [新学期の授業が始まった。授業の後、学生と雑談していたら、彼も3月に釜ヶ崎にいたことがわかった。「韓国人スタッフがいる宿があって、韓国人バックパッカーがいっぱいいましたよ」という。私はバックパッカーをほとんど見かけなかった。個人の体験というのは、そんな違いもある。ということもあるが、大阪の話はまだまだ続く]

 奈良の山奥に住んでいた10年間、何かの用があって出かけるとすれば、大阪であり、難波だった。奈良市は、今も昔も、娯楽でも買い物でもあまり魅力がない街だ。遠足かなにかで東大寺周辺と、近鉄あやめ池遊園地(奈良市 2004年閉園)に行ったことは覚えている。遊園地といえば、ひらかたパーク(京阪の経営。とっくに閉園したのかと思っていたが、たった今調べてみたら現在も営業していた。失礼、喜悦)の菊人形を見に行ったことも覚えている。枚方市を、「ひらかたし」と読むと知ったのはのちのことだが、この地名になじみはあった。観光や行楽を目的にしないと、大阪市が村人の大都会だった。
 大阪には、村にないすべてのものがあった。村から大阪に行くにはいくつかのルートがあったが、国鉄五条駅から和歌山の橋本駅経由南海高野線難波駅というのが、乗り換えなどを考えても、便利なルートだった。難波に出れば、もうそれで充分だから、梅田まで行く必要はない。
 奈良の山奥から大阪に何度も出かけている。それは山里の少年にとってハレの日だから、いろいろ覚えているのだが、行った時期と場所と、その時の記憶の断片をはっきり覚えているのはあまりない。幼稚園時代に、父が入院していた病院に行った記憶は比較的覚えている。
 父が入院していた病院を、「天王寺病院」だったと記憶していたのだが、今回、この文章を書くので確認してみると、そういう病院は天王寺や難波周辺にはない。姉に確認したが、姉の記憶もやはり「天王寺病院」だった。しかし、そういう名の病院が実在する、あるいは実在したという記録が見つからない。名前が近いのは天王寺駅近くの四天王寺病院で、戦前からある病院なので、1950年代末に父が入院していても、時期的には不思議ではない。
 奈良の家の前には郵便局があり、局長さんは「竹原のおっちゃん」で、郵便局の隣りに竹原さんちがある。その竹原家の斜め向かいに我が家があった。竹原家に私と同学年の子供がいることもあって、家族ぐるみのつきあいをしていた。
 その竹原のおっちゃんが、「ご近所のよしみ」で大阪まで父の見舞いに行くので、退屈している幼稚園児の私を連れて行ってくれることになった。その日の記憶は、芝居でいえば二幕物だ。一幕目は、病院のベッドだ。父とおっちゃんが待合室か廊下で世間話をしている間、私は父のベッドで昼寝をしていた。くたびれていたのだ。
 ウチから五条駅までバスで30分ほどかかり、五条駅からは、おお、あの時代は蒸気機関車の旅だ。1950年代末に、奈良の山奥から天王寺まで行くには、おそらく3時間くらいかかっただろう。日帰りできるギリギリの距離だから、幼稚園児には少々過酷な小旅行だった。蒸気機関車で大阪に行くというのは戦前期でも同じだから、1950年代は、戦前と戦後の違いはまだない。奈良県内を走った最後の蒸気機関車は1973年ということらしいが、大阪市内まで蒸気機関車ではないだろう。それにしても、田舎の駅から蒸気機関車で出かけたのは事実だからしかたがないが、再現映像はセピアに加工される「おじーちゃんの昔話」という感じの話だ。60年前のことだからなあ・・・。
 大阪見舞い旅二幕目は、食堂だ。大きなガラス窓がある明るい部屋だ。もしかすると天窓があったかもしれない。私はライスカレーを食べた。おっちゃんが何を注文したのか覚えていない。カレーが好きだからカレーを注文したのだが、あの当時、ほかの料理を知らなかったという理由もある。田舎の子供には、外食の習慣はなかった。田舎の子供は、まだハンバーグもスパゲティーも餃子も知らない。ライスカレーカレーうどんくらいしか知らなかった。
 まだその当時、「ライスカレー」と呼んでいたその料理は、円い皿にご飯を盛り、その半分にカレーがかかっている。飯とカレーの境目に生タマゴがのせてある。あの頃の日本人は、ライスカレーウスターソースをかけて、韓国人がピビンパップ(ビビンパ)を食べるように、スプーンでこねくり回して食べていた。だから、厨房で混ぜてから客に出す自由軒のカレーが存在するのだ。
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 立地条件を考えれば、その食堂は難波の高島屋本店だと推測できる。30 年ほど前に、その食堂を確認したくて、高島屋に行ったのだが、和食も洋食も中華もあるお好み食堂はすでになく、レストラン街になっていたので、確認のしようがなかった。「本当にデパートだったのか」と問われれば、「さて・・」と心もとない。はっきりと覚えているのは、生タマゴがのったライスカレーと明るい食堂の風景だ。スプーンは紙ナプキンで包んであったと思う。その後しばらくしても、街の食堂では水が入ったコップにスプーンをさしている店があった。
 思い出すことはまだある。あの時代、村で肉を口にするなどということは、ライスカレーを食べるとき以外にはなかったと思う。日本人の誰もが白米を毎日食べられるようになるのは、もう少し後の時代だ。