1212話 プラハ 風がハープを奏でるように 第21回

 マルタ・クビショバーとチェコの音楽と政治と その3

 

 公安がマルタに求めたのは、「私は悪いことをしました。申し訳ありません」という始末書にサインするか、外国に出ていくかの、どちらかだった。外国で騒ぐだけなら、国内には影響はないという考えだった。マルタは、その両方を拒否した。

 普通の国民には外国旅行の自由はなかったが、反政府的人物は国外亡命を推奨していたらしい。マルタの最初の夫は映画監督のヤン・ネメツだが、離婚してアメリカに亡命した。同じく、ワルシャワ条約軍が侵入した1968年のチェコ事件を機に、アメリカに亡命した映画監督がいる。ミロス・フォアマンチェコ語風に読むと、ミロシュ・フォアマン(1932~2018)である。

 フォアマンといえば、精神病院を舞台にした大傑作「カッコーの巣の上で」(1975)の監督だ。今回調べてみるまで彼がチェコ系だということは知らなかったが、「チョコ事件以後亡命」と知って、映画の舞台となる精神病院とはチェコスロバキアあるいはソビエトだったのではないかという気がする。刑務所の強制労働が嫌だということで、精神病を偽って入院してきたのがジャック・ニコルソン演じるマクマーフィーだ。あの映画を見たのは80年代に入ってからだったが、その当時に抱いた感想、例えば強権の看護師長は、東ドイツソビエトのイメージの演出ではないかと感じた記憶がある。監督について何も知らないときに、あの病院に東ドイツソビエトを感じていたのだ。仮病なのに、病院に収容されているうちにおかしくなるというストーリーを思い出すと、病院が当時のチェコスロバキアと重なるのだが、現実はちょっと違うらしい。

 プラハの春関連の資料を探しているとこんな動画が見つかった、NHKが放送したBSスペシャル「冷戦 第14回」。ここで、ミロス・フォアマンが1968年以前の検閲について語っている。

 「検閲そのものは、そんなにひどいものではありませんでした。しかし、検閲制度がもたらしたものは最悪でした。芸術家たちは、自分で自分を検閲するようになってしまったんです」

 以下の動画の28分くらいのところ。

https://www.youtube.com/watch?v=TnrabVWJLCc

 この話で、チェコがちょっとわかる気がした。これが中国なら、表現者を監禁や軟禁にして、場合によっては「行方不明」にするだろうが、チョコはそこまではしていない。1989年の自由化を求めるデモに警官隊は対峙したが、韓国のように軍が市民を撃ち殺すようなこと(1980年、光州事件など)はしなかった。タイでも、警察や軍がたびたび市民を路上で虐殺している。1968年のプラハの春までは、「チェコスロバキアソビエトの優等生」と言われるような警察国家だったらしいが、それでも当時の中国や韓国と比べれば、規制は比較的ゆるかったのだろう。厳しくなるのは、それ以後のソビエトの支配を強く受ける「正常化」時代だろう(ソビエトのポチになることを、チェコの政治用語で「正常化」という)。誤解のないように書いておくが、私は共産党政権時代に人権侵害はなかったと言っているのではない。『遅れたレポート』(L .ムニャチコ、来栖継訳、岩波書店、1990))という本があるように、圧政はあった。

 1989年のチェコ。のちに「ビロード革命」と呼ばれた自由化運動は、数百人のけが人とひとり死者がいたらしい。警官に殴られた者はいくらでもいたが、市民に袋叩きにあっている警官の映像も見た。それでも発砲事件にはならなかったようだ。

 1989年11月24日、共産党中央委員会はフサーク大統領やヤケシュ第一書記の辞任を発表し、事実上共産党政権が崩壊した。夕方、市民たちは、自由を得た喜びを確認するために、バーツラフ広場に集まった。広場に面したビルのバルコニーに、政権に抑圧されながらも反体制の姿勢を貫いた人が登場した。

 チェコスロバキアを自由な国にする「プラハの春」の中心人物、「人間の顔をした社会主義」運動のリーダーだった元共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェク。自由化運動でたびたび逮捕されていた劇作家バーツラフ・ハベル。彼は、翌12月に、チェコスロバキア共和国最後の大統領になり、93年にチェコ共和国の初代大統領になった。自由化を求める放送をしたテレビキャスター、カミラ・モウチコワ。体操の金メダリスト、ベラ・チャスラフスカ。そして、歌手マルタ・クビショバー。そのマルタが広場に詰めかけた人々に歌いだすシーンがこれだ。市民の心は、「プラハの春」をズタズタにされたチェコ事件の悔しさと、自由化に動き出したこの「ビロード革命」の喜びが交じり合っている。

https://www.youtube.com/watch?v=80PzXcH1Tz0

 『桜色の魂』(長田渚左、集英社、2014)によれば、ビロード革命のこのとき、偶然にもプラハ日本テレビのスタッフがいて、チャスラフスカにインタビューしている。レポーターは別番組で取材に来ていた徳光和夫だったという。