1094話 イタリアの散歩者 第50話

 フェデリーコ・ツッカーリの家から始まる話。

 それは『イタリア歩けば・・・』(林丈二講談社、2001)の239ページの2枚の写真から始まった。ローマのおもしろいもの散歩の章だ。
 「フェデリーコ・ツッカロの家の建物 Via Gregorana」という写真説明があって、本文には「16世紀にたてられた住宅なんだそうだ」という説明しかない。建物の壁に大きな口を開けた顔があり、その口が出入り口になっている。これはもう、見に行くしかない。
 スマホなら簡単に調べられるのだろうが、私は大きな地図で道路リストを調べて、たどり着いた。おお、あったぞ、これか。こいつはおもしろい。

 以下、大口の館をお楽しみください。もっとよく見たいなら、ストリート・ビューで見ることもできるが、それは便利なのかつまらない世の中になったのか。


 何人もの人が出入りしているから、個人住宅ではないらしい。入口のガラス戸に書いてある文字をメモした。
 “Bibliotheca Hertziana Roma”
 私にも、ここが図書館だということはわかる。しかし、イタリア語らしくない”Hertziana”という語の意味がわからない。
その日の夜、散歩を終えて宿に戻ると、私の情報源のひとりである宿のマネージャーに、撮影した画像を見せながら、”Hertziana”の意味をたずねた。彼は、画像を見て、「ああ、あれね」とあの「大口」を知っていたが、詳しいことはわからないようで、パソコンを開いた。
 「へルツィアーナは、ユダヤ人女性が・・・、えーと・・」と、インターネットで探した情報を英訳してくれた。パソコンの画面を見たら、ウィキペディアのイタリア語版で、「コピーしますか?」と聞くので、「ウィキペディアなら日本でゆっくり見ます。どうも」と礼を言った。
帰国して、調べた。
 まずは、この家の話だ。画家にして建築家のフェデリーコ・ツッカーリ(Federico Zuccari 1542ごろ~1609年)が設計し、1600年前後に完成したのが、奇妙な顔のこの建物だ。教会ならともかく、400年以上前から、こういう建物が建っていたのだ。うーむ、と唸るしかない。
 資料を読んでも、これが自邸なのか、別の目的があって作ったのかどうかわからない。イタリア語の資料には、”Palazzo Zuccari”と出ているから、通称はツッカーリ宮と呼んでいたのだろう。
 ツッカーリの死後、この建物はさまざまな歴史をたどったが、1914年ごろに図書館となった。ドイツではサロンの主宰者として有名なユダヤ系ドイツ人ヘンリエッテ・ヘルツ(1764~1847)の名にちなんで、ドイツのマックス・プランク研究所が設立したイタリア美術書の図書館が、この大口の館だ。ちなみに、ヘンリエッテ・ヘルツに関する資料は日本にも多く、こういう著作もある。
 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784805751602
 この大口の館は、かのスペイン広場のすぐ近くにある。あの階段の上にあるから、階段を下りながら考えた。ここに来たことはあるのか? 記憶がまったくない。34年前には来なかったのだ。「くだらん、そんな場所」と思ったわけではない。当時はまだ、スペイン広場の意味を知らなかったのだ。「シャレード」など、オードリー・ヘップバーンの映画は何作かは見ていたが、34年前は「ローマの休日」をまだ見ていなかったのだ。だから、この階段の特別な意味を、まったく知らなかったのだ。
 階段を下りながら見渡すと、中国人のおっちゃんやおばちゃんたちが所在なさげに座っている。退屈そうだ。「はい、ここで30分」とガイドに言われて、「出発します!」という声がかかるまでの時間を、ただじっと、世間話をして過ごしているのだ。34年前の私と同じように、「ローマの休日」を見ていなければ、この場所を見物に来た意味が分からない。そこが、誰が見ても特異さがわかるコロッセオや大聖堂と違うところだ。
 

 大口の館から階段を降りると、ここ。スリの稼ぎ場でもあるらしい。

 スペイン広場のあと、またトレビの泉に行くことにした。昨夜のテレビニュースで、泉に男が染料を撒き、水が赤く染まったという映像があった。翌日にはどうなっているのか、確認したくなったのだ。
 http://www.afpbb.com/articles/-/2300621
 ニュースには、犯人が現行犯逮捕された瞬間の映像もあり、男がカメラに向かって何かしゃべっているので、注目を浴びるための行為だと想像はついた。何かを訴えているようだった。
 事件翌日の泉は、まるで何もなかったかのように、透明な水をたたえていたが、警官の数は増えていた。犯人は、ペンキなど落としにくい塗料ではなく、入浴剤のような染料を使ったので、水を替えたら元に戻る。そういう事を考えた犯行だったとわかる。