ラトビアと音楽
リーガの休日、公園で民族ダンスの発表会をやっていて、じっと音楽に耳を澄ましたのだが、それほどおもしろい音ではない。
魅力的な音楽が流れてくるかと期待して待っていたのだが、残念ながら・・・。
今回の旅も、アエロフロート利用だから、機内で映画は楽しめない。ロシア語吹き替えはいやだ。そこで、ウォークマンに落語をたっぷり入れておいた。我がウォークマンにはFMラジオを聞くことができるので、リーガの夜はラジオを聞いていた。当然ながら、ラトビアのラジオだからといって、ラトビアの音楽だけを流しているわけではない。1960年代のイタリアの歌も流れれば、1970年代のイギリスの音楽も流れる。ラトビア音楽が中心の番組に周波数を合わせて聞いていると、ユーロビジョンコンテスト出場曲のような、音楽学校で基礎訓練を受けた品行方正の歌声が聞こえてきて、「もういいか」と思った。ポルトガルやスペインで楽しんだ音楽の夜はない。
CDショップに行った。商品の3割くらいはレコードだ。店内に民族音楽風ポップスだろうと思われる音楽が流れていた。日本の五つの赤い風船のような、あるいはアイルランドのコアーズのようなサウンドといえばいいか、アイリッシュとかトラッドというようなジャンルのような曲調だ。店の一角がカフェのようになっているので、そこで冷たい飲み物を注文して、店内に流れている音楽を聞いていた。そして、「この国のCDは買わなくてもいいな」という結論に達した。音楽業界には悪いが、ユーチューブで聞く程度の付き合いでいいかと思った
店に客はほとんどいないので、40代の店主と雑談をした。
「十代のころ聞いていたのは、どんな音楽なの?」
「パンクさ。悪いけど、オレ、ヒッピー世代じゃないから」
私がヒッピー世代で、ロックとともに生きてきた男と思ったようだが、全然違う。私はロック少年ではなかったが、まあ、それはいい。
「初めて買ったレコードは?」
「セックス・ピストルズのドイツ盤。高かったよ!」
「リーガで売っていたの?」
「いや、誰かが持ち込んだんだと思う」
店主がせめて50代なら、ソビエトに支配された時代の音楽状況を肌で覚えているだろうが、解放後30年たっていると。今40代だと解放時はまだ中学生だ。
「高いレコードを買ってさ、カセットテープにダビングして、売ったよ。儲かったね」
少年時代から、レコード屋のまねごとをやっていたようだ。
「ロシアの骸骨レコード(レントゲンフィルムにレコードの溝を刻んだ自家製レコード)のようなものは、ラトビアにはあったの?」
「骸骨レコードの話は聞いたことはあるけど、現物は見たことないなあ」
カセットテープが自由に手に入る国なら、骸骨レコードの出番はない。西ヨーロッパの音楽を聞くことの制限もなかったという。北欧のラジオ放送が流れてきたはずだから、禁止のしようがないのだ。
そんな話をしばらくしていたら、店主はちょっと声をひそめた。
「ほんとはね、大好きなのはパンクじゃなくて、Electronic Musicなんだ・・ドイツの・・・」
なぜ声をひそめたのかわからない。
「じゃあ、クラフト・ワークのような?」
「ねえ、これ気がつかなかった?」
店主はTシャツの胸を指差した。クラフト・ワークのレコードジャケットをプリントしたシャツだ。私が、初めて買ったレコードの話を振ったからパンクを話題にしたのだろうが、ホントはピコピコワウワウ電気サウンドが大好きらしい。
アイスクリームをなめながら若い男がふたり、店に入ってきた。万引きしそうな、いやな予感がする。店主も同じように感じたらしく、ふたりに近づいて、何やら話している。
若い男は店を出て行き、店主は私のところに戻ってきた。
「ヒップホップを探しているなんて言ってるから、『そんなものはないよ!』と言ってやった」
私はパンクもテクノも好きではないから、その点では店主の趣味とは合わないが、ヒップホップ嫌いということでは好みが一致する。
この店には私が買いたくなるCDはなさそうだから、映画のDVDをチェックしてみようかと、DVD棚の方に行った。
音楽とはまったく関係ないが、カット代わりにリーガの中心地に立つ「自由の記念碑」(Brīvības自由、 piemineklis記念碑)。1918年から2年間続いた独立戦争の戦没者を悼んで1935年に建てられた。ソビエト時代は近づくことが禁じられた。