1386話 「応答せよ」と韓国現代史 その4

 ソウル特別市道峰区双門洞

 

 韓国ドラマ「応答せよ 1988」は、ソウル特別市道峰区双門洞の住宅地に住んでいるお隣さん5家族の、1988年から10年ほどの生活を描いている。

 ソウル25区のなかで、江南(カンナム)区や明洞のある中(チュン)区なら日本人観光客でも知っているだろうが、道峰(トボン)区となると、観光客にはほぼ無縁の区だ。ソウルの最北端、東京で言えば足立区の位置なのだが、山が迫っているという点では東京都あきる野市あたりの景観だ。日本人観光客はもちろん、ソウル在住日本人も足を踏み入れる機会は多分ほとんどない道峰区だろうが、実は、偶然だが、私は行ったことがあるのだ。行っただけでなく、数日滞在したこともある。

 1985年1月のことだ。ある雑誌の取材で韓国に行った。空港からタクシーでソウル広場に行き、その近くにある会社で取材の打ち合わせをしてからホテルに向かった。取材費の乏しい旅だから、ソウル最北のホテルまではバスで行った。東京でいえば、銀座から足立区の埼玉県境近くまでバスで行ったようなものだ。地下鉄4号線が道峰区を走るのは1985年4月だから、85年1月当時、交通機関はバスかタクシーしかない。あの頃の交通事情を知っている人なら、タクシーは簡単に捕まらないし、バスは大混雑していたことがよくわかるだろう。

 そのホテルは出版社が予約したものだ。帰国後、「どうして、あんな不便な宿を予約したんですか!」と文句を言ったが、編集者は宿の位置を知らなかった。おそらく出入りの旅行会社に航空券とホテルの予約を依頼し。ソウルを知らない旅行社社員は予算だけを考えて適当にホテルを決めたのか、あるいは、嫌がらせか?

 あのとき泊ったホテルの名は覚えていないが、ソウル最北部の道峰区のさらに最北部にあったという記憶はあった。ホテルの庭の寒暖計が、わが生涯の最低気温マイナス11度を示していた記憶もある。今回、「応答せよ 1988」の舞台が道峰区というところだと知り、まったく知らない区なので、ソウルの地図で確認すると、かつての不幸なホテル体験をした区なのだと知った。ほぼ同じ時代の同じ区ではあるが、私が見ていたのは山のすそ野だ。ホテル前のバス停は日本語にすると「登山口」だ。ドラマの舞台はホテルよりももっと南の新興住宅地だ。

 夕方のラッシュアワーを避けるには、ソウル中心地での取材を早く終わらせ、4時前にバスに乗るという対策があるが、早めにホテルに戻っても食事場所がない。ホテルの近所は登山口なのだ。雑貨屋があるだけで、飲食店がない。ソウル中心部で食事をしてホテルに戻るなら、帰宅ラッシュが終わるまで中心部で時間を過ごさないといけない。その時の取材はカメラマンと一緒だったのだが、彼も酒を飲まないので、食事は30分で終わる。

 ある日のこと、ソウルの中心街のバス停で、大混乱のなかバスに乗り込む戦いをしたくないので、早めに宿に戻ったものの、ホテルのまずくて高い飯を食べたくない。散歩を兼ねて、氷点下の夕刻、飯探しの遠征を始めた。雪はないから、歩く苦労はない。途中、交番前でカメラマンが職務質問を受けた。カメラを持っている外国人を不審に思ったようで、我々はパスポートと荷物の検査をされた。そういう時代だったのだ。

 商店がほとんどない凍てつく田舎道を歩いていくと、遠くにネオンサインが見えてきた。水商売的なネオンサインではなく、おしゃれなものだ。田舎のたった1軒の飲食店がおしゃれな外観というのが「浮いた」存在で、しかもそのネオンサインが英語だったのだ。今は外国語の看板があることが特段、異様ではないだろうが、あのころは外国語の看板は制限があったからほとんど見かけなかった。役所には漢字の看板があり、高級ホテルには英語(あるいはローマ字)の看板があったが、それは例外的なものだった。

 荒地と畑しかない田舎の飲食店は、道路に面した部分は大きなガラス張りで、ハワイかカルフォルニアにあってもおかしくないおしゃれな内装の店内が見えた。ピザ屋だ。30歳前くらいの若い男女が店を切り盛りしていた。「アメリカ育ちの韓国人がソウルで始めたピザ屋」というのが、私の想像だった。こんなしゃれたピザ屋は、ソウルの中心地でもまだなかったと思う。ピザの味に韓国らしさはなかったが、ピザと一緒にタクアンがついてきたのが、韓国らしさと言えるだろう。この当時、韓国にはピザ店などほとんどなかったから、1985年1月の、田舎に建っていたおしゃれなピザハウスが、今でも気になっているのだ。

 以上が長い枕で、次回は韓国のピザなど西洋の食べ物の話をする。