1447話 その辺に積んである本を手に取って その4

 憂鬱なタイ

 

 例によって、ネットでおもしろそうな本を探していたら、『王室と不敬罪』(岩佐淳士、文春新書、2018)を見つけた。そういう本が出ていることを知らなかった。5年ほど前から、新刊書を追うことにほとんど興味を失っているから、新刊書を絶えずチェックする習慣はなくなった。読んでおくべき本、読みたくなる本はすでに数多く出版されていることがわかっているから、毎週書店に行って新刊書チェックをする気などない。

 『王室と不敬罪』というタイトルで、タイの話だとすぐに分かる。まず思ったのは、「そんな本出して、大丈夫か?」だった。著者は今後タイに入国できないか、「不幸にして」入国できたら逮捕されるかもしれない。それが、不敬罪だ。

 不敬罪は香港国家安全維持法と同じで、権力筋が「有罪!」と決めれば、国籍に関係なく誰でも有罪にされてしまう。権力者の思いのままに、「政府や軍の横暴」を合法化できる法律なのだ。

 ということは、『王室と不敬罪』を書いた毎日新聞記者はもうタイに行かないと決心したのか、あるいは毎日新聞アジア総局(バンコク)がどんな圧力を受けても戦うという新聞社の決意を表したのか。あるいは、そんなことにならない穏当な内容なのだろうか。どうも、後者だろうなと思いつつ、買った。

 ほとんど、すでに知っていることばかりだった。参考文献としてあげた本のほとんどを、すでに読んでいる。「あれは、書けないよな」ということは、やはり書いてないが、それを責める気はない。実質上軍事独裁政権は、昔の韓国や台湾のような言論統制強化の方向に進んでいて、油断はならない。今のタイは香港のようになりつつある。近頃タイにあまり行かなくなり、行っても早朝着・深夜発の滞在しかしていないのは、タイを考えると憂鬱になってしまうからだ。

 タイは、昔も軍政時代があった。軍事政権に対して、かつて自由や民主主義を掲げて戦った若者たちは、今はビジネスエリートとなって保守側に成り上がり、「選挙などいらない。クーデターはタイ式民主主義だ」と叫び、無学の貧乏人と我々都市のエリートが同じ1票の投票権があるのはおかしいなどと言い始める。今もかつてのように民主主義を求める主張をしている有名人は、プラティープ・ウンソンタム・秦さんくらいらしい。

 この新書でも、今まで出版されたタイ関連書と同じように、タイ国王の威光がいかに強いのかという例を、同じ話で説明している。1992年に国軍が民主化運動グループを襲撃した「5月の虐殺」のあと、軍最高司令官から首相になったスチンダーとデモ指導者のチャムロンのふたりを、国王は王宮に呼んだ。国王の前でひざまずくふたりの映像を見た人は、「これぞ、国王の威光」と絶賛したのだが、「それは、違う」と私は以前から言ってきた。国王に、本当に強大な威光と権威があるなら、300人以上が軍に殺される前に調停すれば、多くの人命が救われただろう。しかし、国王が登場したのは、軍がさんざん虐殺をした後だ。軍にやりたいだけやらせて、そのあとに国王が登場したのだ。

 日本の天皇も同じだが、王は自分が自由にできる軍隊を、制度上はともかく現実的には持っているわけではない。タイの軍隊も、国王はいかに偉大かという威光強化政策を推し進めて、その威光を背に自由にふるまってきた。それが今までの軍事政権だ。つまり、軍が好き勝手に何でもできるように、軍が作り出した「王の威光」という神話を利用したのだ。クーデターを国王が承認してきたのは、クーデター派についたほうに利があるという王室の判断があったからだ。クーデター派に実力なしと判断すれば、そのクーデターを承認しないというわけだ。

 タイ人は王室や王に対して称賛する自由はあるが、もし異を唱えれば、最悪の場合死が待っている。自宅や自分の店や会社に国王の写真を掲げていないと、反王室派と認定され、警官の小遣い稼ぎの対象になるか、あるいは不敬罪で逮捕されるかもしれないという危険がある。だから、「すべてのタイ人は国王を敬愛し・・・」などと無邪気に書いている文章を読むと、うんざりするのだ。敬愛しない自由など、そもそもないのだ。

 そういう事情は、1945年8月までの、天皇と日本人の関係にも似ているように思う。

 不敬罪は香港の、あの悪法同様、外国人にも適用される。