1806話 若者に好かれなくてもいい その6

 

 不注意な旅行者は、若者に限った話ではないし、旅の経験が乏しい人に限った話でもない。

 芦原伸という旅行作家がいる。私の趣味嗜好と方向が違うので、この人の文章をほとんど読んだことがないのだが、戦後の旅行史や旅行マスコミの資料として、自伝『旅は終わらない』(毎日新聞出版、2022)を読んだ。この本に不注意な旅行者が登場する。

 芦原は1946年生まれ。大学卒業後すぐから、ガイドブック、とくに鉄道旅行のガイドを数多く書いている。2009年、「週刊朝日」の連載で、イタリアから鉄道で東欧、中近東、中央アジア、中国とすべて鉄道を使って旅をして、日本に戻るという旅を企画した。

 出発地のローマで、スリにやられた。次の文を読んで、「自業自得」と本に記入してしまった。

 「駅前で信号待ちをしていた瞬間に後ろポケットから財布を抜き取られた」

 現金200ドルほどに、クレジットカードが盗まれたという。

 日本国内でも、長財布を尻ポケットに刺している男を見ると、「すられないと、みっともない格好だと気がつかないんだろうな」と思うから、すられても同情の余地はまったくない。いわんや、外国でも同じ格好で歩いている日本人がいるんだよ。ローマの芦原伸の場合は長い財布か二つ折りの財布かはわからないが、後ろ姿でポケットに財布が入っているとわかる格好でローマを歩いていたのが、一般的に言えば「旅行のプロ」という言われるような老練旅行ライターだ。

 すられた当人は、事件の原因はふたつあると分析している。

 そのひとつは、他人のせいだ。「当時ローマには中南米諸国からのプロのスリが横行しており、観光客の被害が続出していた。とりわけペルーからのスリは、天才的、芸術的である、と巷で話題になっていた矢先のことである」。スリの技術をほめてどうする。

 もうひとつの理由は、自分にも問題があるとしている。

 「日本人同士で旅行していると、その空間だけが日本語圏のいわば“日本人村”になってしまう。外国にいる現実を瞬間忘れてしまうのである。(中略)安全ボケしている日本人は恰好の標的になる、といわれるが、私はまんまとカモになってしまった」

 同行カメラマンと話をしながら歩いていた自分も、安全基準が日本水準のままだったという意味だ。この分析は正しいが、そもそもの原因は、尻ポケットに財布を入れていたことだと芦原氏は気がついただろうか。もし、ローマで日本人の誰かが、「尻ポケットに財布を入れると危ないですよ」と芦原氏に注意したら、「俺を誰だと思っているんだ。取材旅行50年だぞ」というだろうか。

 ブルガリアの首都ソフィアでは、カメラバッグに入れていた財布を危うくすられそうになったという。財布を尻ポケットからショルダーバッグに移したのか、あるいはふたつの財布を持っていたのかわからないが、バッグに入れておいたら安心と思ってはいけない。万が一、バッグに手を入れられても、貴重品は簡単には盗られないようにするという工夫が必要だ。

 偉そうなことを書いているが、私もカイロでスリにやられたことがある。20代のときだ。その時の体験談で原稿料を稼ぐという「ライターは転んでもタダでは起きない」という処世術を実践したことがある。カイロ事件以後、スリには気を付けているが、街を歩いていると背後からくっつくように歩いている怪しいヤカラに気がついたことが何度もある。2人か3人で近寄り、ひとりが私のバッグに手を伸ばすと、もう一人がその背後に立ち犯行が見えないようにするという連携プレイだ。いつもひとり旅だと、全身に神経が張り付いているから、背後の気配に気がついたのだ。

 そういえば、スリの犯行の瞬間をニューヨークで見たことがある。私の隣りを歩いている若い男が、前を歩く女性のショルダーバッグに手を伸ばしているのが見えて、犯人の手首をつかんだことがある。

 そういえば、思い出した。チェコプラハの路上で、「バッグのジッパーがあいてますよ」というジェスチャーで、おばちゃんから注意をうけたことがある。路面電車を撮影しようとバッグからカメラを取り出しアングルを探っているときだった。カメラは手にしているから、バッグに貴重品はないし、周りに人がいないことも確認しての行動だが、注意してくれる人がいるのはありがたいことだ。