1824話 校正畏るべし その3

 

 『文にあたる』に、「敷居が高い」という言い方に関して、こうある。

 「敷居が高い」は本来、「不義理をしていて、その人の家には行きにくい」の意味だが。「高級さ・上品さにひるんで行きにくい」の意味で使う人がいる。そういう使い方をしている文章があると、「『本来』の意味を提示して『ハードルが高い』などの言い換えを提案しています」と著者は書いているが、「ハードルが高い」で、いいのかという話をしたい。この言い方は、つい先日の朝日新聞の記事でも使っていて、すでに「公認」の判が押されているようなのだが、私はいつまでもなじめない。ハードルは高くしたり低くなったりはしないのだ。上げることができるのは、高跳びのバーだ。

 ハードル競技の場合、男女別と走る距離によってハードルの高さは異なる。110m競技なら男子は1.067m、女子は0.840m。400m競技なら男子0.914m、女子は0.762mと決まっている。だから「準決勝や決勝になるとそれぞれ5cm高くなる」などということはない。「状況によってハードルが高くなる」ことはないのに、なぜこういう誤った表現が広まったのか。私の想像を書いてみる。

 Hurdleという英語のもともとの意味は塀や柵で、「障害物」の意味で使われるようになり、陸上競技の障害物の「ハードル」としても使われるようになる。ハードルが障害を意味する例文は、例えばLONGMANのこのページにいくらでも出てくる。

 Hurdleが出てくるそういう文章を読んだ日本人が、「障害」と訳さなければいけないのに、「ハードル」とカタカナ表記したために、こういう誤記が生まれたのだろう。日本語の文章では「ハードル」とは陸上競技の種目とその障害物のことだ。それをそのままカタカナ表記して、「高いハードル」と言っていたのが、芸人たちが「ハードルを上げる」などと言い始めて広まった・・・と、私は想像している。

 ずっと前から気になっていて、このアジア雑語林でも書いたことがある表現は、「瞳を閉じて」だ。瞳は閉じたり開いたり自由にできないのに、「瞳をとじて」という歌詞はおかしいという意見はネット上に多く、それに対して文法用語を使ってもっともらしい説明をしている匿名氏がいるが、説得力はない。

 瞳=目だという比喩なのだというが、「そうかねえ?」。瞳にはもともと目の意味はなく、「瞳が合う」とか「瞳が悪くなった」などとは言わない。だから、「目を閉じて」とするよりも、「瞳を閉じて」という方が、なんだかかっこいいよな、詩的だし・・・ということではないか。何も考えずに、「ただの気分で」、そういう歌詞を書いた人のだろう。

 さあ、ここで校正・校閲の問題だ。論理的に不自然だからと言って、「そういう表現はけしからん」とは言えないのが校正だ。一応は誤りを指摘するが、最終的には表現者の意思を尊重してそのままの表現にするかどうかは、表現者と編集者との話し合いで決まることで、校正者は関与しない。私は「瞳を閉じて」といった言い方は好きではないが、校正者ではないから、「今や手垢がついた歌詞だから、うんざりだよ」とだけ言っておこう。

 今思い出したことを、最期に書いておこう。

 新聞記事に、「カナダ人の〇〇が・・・」という表記と、「カナダ国籍の〇〇が・・」という両方の表記があり、どう違うかわからない。現役とOBの新聞記者たち(ひとりは校閲担当)に聞いてみたのだが、皆さん「そんな違いがありましたかねえ?」という反応だった。ひとりが、「これは、推測ですが」と前置きして、「『カナダ国籍の・・』という場合は、偽造パスポートを持っているとか、国籍取得に犯罪の匂いがするといったニュアンスが込められているかもしれないと、思うのですが・・・」というが、確証ではない。朝日新聞校閲にメールで問い合わせたこともあるが、納得できる回答はなかった。