361話 校正・校閲、あるいは編集者の仕事  8

 本の「あとがき」で、担当編集者に対する謝意が述べられているのはよくあることだ。ときには装丁者や資料提供者、あるいは家族への謝意が書いてあることもある。校正者の名前が入っている本は何冊かはあるだろうが、拙著『旅行記でめぐる世界』(文春新書、2003)以外、私は知らない。なぜ私がふたりの校正者の名をあげて謝意を表したかと言うと、校正者に救われたからだ。
 『旅行記でめぐる世界』は、日本人の手による数多くの海外旅行記を読んで、さまざまな観点から論じた本で、引用部分もかなりある。国会図書館にもない本からの引用では、校正者は原本を確認できないから、「引用部分をコピーして送ってください」という依頼が編集者を通してくると思っていたら、そういう連絡は一切なかった。私の経験では、学術的な文章を書く場合、引用した文献を編集者もすべて入手することはほとんど不可能なので、あらかじめ「原稿はメールでいただきますが、引用部分に関しては、資料の引用部分をコピーして、郵送してください」とう依頼が何度かあった。だから、この文春新書もそうするかと思ったのだが、何も言って来ないまま、ゲラが出てきた。
ゲラというのは、原稿を本のレイアウトに組んだもので、編集者や校正者の書き込みがある。明らかな誤字脱字だと判断できる場合は、赤ペンで指摘がある。これを、業界用語では「アカが入る」とか「アカを入れる」などという。
 文春新書編集部から送られてきたゲラには、自己嫌悪に陥るほどアカが入っていた。引用した部分にもアカが入っていて、「原文のままのはずだが」と思いつつも、原文を確認すると、私の写し間違いだと気がついた。意図せずに、漢字表記をひらがなにしているという単純なミスもあるが、数文字抜けていることもあった。それでも全体の内容は変わらないが、原文のままではないというのは恥ずかしいことだ。
 担当校正者にご迷惑をかけたと思うのは、しかたがないのだが、引用文献が多すぎることだ。校正者は、まず私が引用した文献を手に入れないといけない。簡単に手に入らない本も多いし、図書館などで本を借りてきても、私が引用した文章がどのページにあるのか探さなければいけない。これも、手間だ。
 そういう実に面倒な作業を、ふたりの女性校正者がコツコツとやってくれた。それがどれだけ大変な作業であるのか、原稿を書いた私自身がよく知っている。頭が下がるその仕事ぶりに感謝するには、はっきりと名前を出して謝意を告げるしかないと思ったので、「あとがき」に校正者への謝意を書いたというわけだ。「校正者に謝意なんて、今まで一度もないですよ」と担当編集者は言ったが、校正者の手柄をどうしても示しておきたかった。
 それでも、この本が出てすぐ、知り合いの編集者から誤字の指摘があった。校正に終わりはないのである。
文藝春秋から出版した私の本が、プロの校正者の目を通過したからといって、文春から出版されるすべての本がこのように徹底的に校正されるというわけではないはずだ。他社でも同じだろうが、編集者が「この本はきちんと校正しないと危ないぞ」と判断した本は、外部の校正者に依頼して、プロの判断をあおぐことになる。そこまでの校正を必要としない本は、編集者の校正で終わりにするか、社内の校閲部の判断で終わるようだ。雑誌の連載記事の単行本化や単行本の文庫化の場合、「すでに、ちゃんと校正しているはずだから」と、校正に手を抜く編集者も、少なくないと思う。前任者から引き継いだだけの本なら、ざっと読んで、OKにする人もある。
 社内の校正といっても、そのレベルはかなり違うが、出版界に共通しているのは、「問題発言や問題用語」のチェックだろう。わかりやすく言えば、差別語探しであり、触れると危ない団体への言及があるかどうかのチェックだ。「インドに着いてすぐ、乞食に囲まれて・・・」などと書けば、すぐさま「乞食」を消して、「物乞い」に訂正させられる。ただし、この場合は強く抗議してくる団体はないだろうが、強大な力を持つ団体のウロコに触れるような表現をすると、出版社に実力抗議があったり訴訟事件になったりして、えらく面倒なことになる。編集者と校閲部の最大の仕事は、「事件にならない文章」にすることだろう。
 私の仕事分野ではないが、広告が多い雑誌の原稿だと、スポンサーとの問題があるから、その企業の製品を批判したり、ライバル企業を礼賛したりすれば、たちまちアカが入る。