1877話 観光学・旅行学・旅学 その3

 

 学問としての、旅学、旅行学、観光学について考える。

 ネット上に「旅学」という語はいくらか見つかるが、それは旅を研究するというものではないようで、「私は旅からこんなことを学びました」という報告や、「旅で学ぶには、こうしましょう」というタグイを、「旅学」と称しているらしい。つまり、学術用語ではなく、人生論や自己啓発のように見える。

 ドイツには、学問としての「旅学」があると教えてくれたのは、民族宗教学の山田仁史さんだった。研究会でたまたま会ったときに、「今、シーボルトと日本について調べようかと思ってましてね」というと、「ちょうどいい本がありますよ」と教えてくれたのが、『黄昏のトクガワ・ジャパン』(ヨーゼフ・クライナー編著、NHKブックス、1998)だった。さっそく読むと、そのおもしろさに驚いた。私が知りたいことがていねいに書いてある。私が知りたいことというのは、ドイツ人と旅の関係だ。旅をしていると、ドイツ人と出会うことが実に多い。人口が少ない国なのにオランダ人と出会うことも多い。調べてみれば、民族学や地理学は、ドイツ生まれの学問らしい。植民地獲得に出遅れたドイツだが、異文化に対する興味はスペインやポルトガルよりもはるかに強いように思った。スペインもポルトガルも、富の収奪とキリスト教化には熱心だったが、異文化に学ぶという好奇心はなかったように思う。

 ドイツ人でありながら、オランダ人と偽って、はるばる日本に渡ってきたシーボルトの文化的背景を知りたかった。幕末の日本人のオランダ語力が素晴らしいとわかるのは、シーボルトオランダ語が変だと気がついたことだ。「こいつは、どうもオランダ人じゃないな」と薄々気がついていたようだが、それに対してシーボルトは「オランダ高地の訛りだ」と答えたという。当時の日本人は、オランダに高地などないことを知っていたのだろうか。それはともかく、私の疑問に、山田さんが1冊の本で解答をくれた。

 その本で、クライナーはこう書いている。1762年に『旅する学者のための手本』を書いたヨハン・ダーヴィッド・ケラーは、1749年にすでに大学で「旅学」についての講義をしている。その後任となる学者たちも、旅学の授業を続けた。教師のシュレーツァーの講義は次のようなものだった。「旅する国を綿密に研究すべきである。そこで見ること、聞くこと、集めること、そしてそれらを記録することが大切である。そのためにはその国の言葉を身につけ、その国の文化に『潜む』ことが大切で、そして個人的な体験をすることである」

 18世紀のドイツで盛んに論じられた旅学を学んだのは、シーボルト父子である。旅先の文化を学び、物を買い集めるという行為が、博物館の時代と重なるのである。

 ドイツの旅学は、宮本常一の旅学の考えに近いように思えるが、宮本がドイツの旅学を知っていたのかどうかはわからない。『宮本常一の旅学』を書いた福田晴子さんが、ドイツの旅学を知っていたかどうかもわからないし、その著作に言及はない。旅行研究は、近現代のドイツ史と深い関係があるのだが、長くなるのでここでは触れない。

 東北大学准教授の山田仁史さんは、博識と人柄のすばらしさで、誰から敬愛され親しまれていた気鋭の研究者だったが、2021年1月に急逝した。まだ48歳だった。年に何回か会っていろいろ教えてもらえるのがうれしかったのに、残念だ。

 最期の会話は、「前川さんて、宗教学のすごい本まで書いているんで、驚いたんですが、別人でしたね」と笑いあった。私と同姓同名の学者がいるのだ。山田さんのことはこのコラムで何度か書いているが、何度でも書いておきたい。ネットで検索して見つからないと、その人物は存在しなかったことにされてしまう時代なので、アジア文庫の大野さんなど、機会に応じてその名を残しておきたい。人々の記憶から消えると、その人が本当に亡くなってしまうからだ。