1966話 ノコギリは、押すか引くか

 

 川田順造の『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』(中央公論新社、2008)は、すでに発表した文章と重複する内容が少なくないので、知っていることも多いのだが、詳しく覚えているわけではないので、「ああ、そうだったか」と感心することもあった。

 西洋のノコギリは押して使うのに、日本ではなぜ引いて使うのか。この問題はいままでさまざまに論じられてきて、もうずいぶん前に私も調べてのだが、その内容はまったく覚えていない。川田氏の説は、西洋の木は堅いので、ノコギリに全体重をかけて押して、切る。日本ではスギやヒノキのように、柔らかい木が多いので、押す必要ななく、引いて使ったのだという。短い文章でそう説明ているが、やはりもっと詳しく知りたい。

 大工道具の本と言えば、『大工道具の歴史』(村松貞次郎岩波新書、1973)を出版当時読んでいるが、さて、ウチの本棚で見つかるか。探ると、すぐに見つかった。建築の棚に入っているから、新書を探せばすぐに見つかる。本棚に入れたのが昔だと、そのままだから、簡単に探し出せる。これが、「異文化」とか「旅行史」の棚だと、本が多すぎて本棚に入らず、どこかに積んであるから探せない。

 タバコのヤニを吸い込んですっかり黄変した『大工道具の歴史』を読む。ノコギリの詳しい説明が続くが、私が知りたいのは「引くか押すか」だから、その点ははっきりしない。もっと明確にわかる資料は・・・と考えて、大判の資料があったはずだと思い出した。大工道具を知りたくて、旧館時代の竹中大工道具館(神戸)に行ったことはあるが、資料を買った記憶はない。本棚を探ると『オランダにわたった大工道具』という展示会カタログ(2000)があった。国立歴史民俗博物館が出したものだが、買ったのは大阪の民博の書店だ。

 ちょうどいい論文がある。「大工道具の日本化」の書き手は、当時館長だった佐原真氏。こういう内容だ。

 古墳時代のノコギリが出土しているそうだが、「引くか押すか」の説明はない。おそらく判明不能なのだろう。6世紀のものは、明らかに引いて使う方式だという。引くノコギリは、日本のほか、エジプト周辺やトルコやギリシャ、ネパールなどにもあるらしい。「もともと、押すノコギリが日本に入ってきて、のちに引くノコギリに変わった」という記述はないが、鎌倉時代に中国から押すノコギリが入ってきたという資料がある。大鋸と書いて「オガ」あるいは「オオガ」と読む。ふたりが木枠がついたノコギリの両端をそれぞれ持ち、押し引くという作業をする。製材用のノコギリだが定着せず、前引鋸という大きなノコギリを引いて使っていた。日本では、完全に「ノコギリは引く」ことになった。

 カンナはどうか。昔はヤリのような形の槍鉋(やりかんな)を使っていた。刃に木の台がついたカンナは17世紀に日本に入ってきた。ノコギリは日本以外にも「引く」地域があるが、カンナは世界のすべての地域で、「押す」スタイルだった。日本にも「押す」カンナが入ってきたが、今日のように「引く」カンナに変わった。江戸時代のことだ。なぜ「引く」に変わったかという理由を佐原氏は、ノコギリを引いて使うので、カンナの同じ動作になったのではないかと推察している。

 さて、この話をもう少し続ける。テレビやユーチューブなどで世界の職人仕事を見ているのが好きなのだが、ヨーロッパの職人がノコギリを引いている姿を時々見る。細かい作業をしている時で、ノコギリは片刃で補強板がついている。画面をよく見ていると、日本文字が見える。日本のノコギリだ。「この前、日本に行ったときに買ったんだ」と職人が話している。日本で「胴付鋸」(どうつきのこ)などと呼ばれているノコギリだ。胴付鋸は、銅突鋸、導突鋸という表記もある。鉄板が薄く目が細かいので、指物師など細かい作業をするのに適している。西洋の職人でも、細かい細工が必要な作業には、日本のノコギリを使う人もいるらしい。包丁と並んで、日本のノコギリやノミを愛用する人はいるが、引いて使う日本カンナを使っている作業風景は見たことがない。