1976話 履き物を脱いで その4(最終回)

 このコラムの1972話で紹介した『フィンランドは今日も平常運転』に、靴下にサンダルというスタイルをしているのはフィンランド人だと書いているが、そう断定はできないだろう。今まで、さまざまな土地で、白靴下にサンダルという旅行者を何度も見ているが、彼らのほとんどがフィンランド人だとはとても思えない。

 素足でサンダルではなく、靴下にサンダルというスタイルは、ただ単に「靴づれしないように」というのではなく、確固たる意志でやっていることだと思う。

 「素足とヨーロッパ人」について初めて考えたのは1970年代なかばだった。ストックホルムスウェーデン女性としばらく暮らしていたという日本人の話で、「彼女は部屋の中でも、裸足でいると怒ってね。靴下をはけって、うるさいんだよ。なんでかねえ?」。

 その後、カウンターカルチャーとかヒッピーと言ったテーマの本を読んでいて、裸足とヒッピーに関する文章があった。書名も書き手の名も、まったく覚えていない。

 記憶を掘り起こして、その文章のポイントを書いてみる。西洋人にとって、裸足になる場所はビーチなど水辺を除けば、浴室と寝室だけだ。だから、女が裸足を見せるということは、「そういう場所で一緒に過ごしてもいいよ」という意味だという。

 裸足や裸というのは、野蛮人、非文明人を表していて、恥ずかしい姿だと考えている。西洋の文化は、そういうことになっている。人前で肌を出す,素足でサンダルを履くなどということは、文明人である立派なキリスト教徒である我々には許されないことだという暗黙の了解事項がある。靴は、文明人のあかしなのだ。

 1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)のなかで姿を見せたヒッピーたちが、素足でサンダルという姿や、ときには街を裸足で歩くことは、「立派な西洋文明」に対抗する行為だった。夏の室内では裸足、屋外でも下駄や草履に慣れている日本人には、ヒッピーの「靴を履かない行為、素足をさらす行為」の意味が読み取れなかったが、欧米ではある意思を示した反体制的行為だった。

 フィンランドの「靴下でサンダル」という姿は保守的な階層の姿だ。バックパッカーとなって熱帯を旅する人は、素足にサンダルが多いと思う。タイでの旅行者観察を繰り返して、そういう結論に達した。カオサン地区はよく知らないが、「靴下にサンダル」姿の旅行者が多いとは思えない。

 私の想像だが、西洋人に素足の人が増え始めるのは1960年代後半からで、その風潮に大きく関係しているのは、ビーチサンダルの普及だろうと思う。それまでビーチの履き物だったビーチサンダルが、犬の散歩や買い物に行く人もサンダル履きになるにつれ、オーストラリアのように「素足にサンダル」が市民権を得るようになってきた。

 資料でまだ確認ができないのだが、日本人が考える「スリッパ」は、日本生まれたとする説がある。幕末から明治初めに日本にやって来た西洋人は、寺院などに入るとき、靴を脱ぐことを屈辱だと感じ、「野蛮な日本人の習慣に合わせてたまるか」という感情を表すために、土足で建物に入った。日本側はそれを阻止するために、靴の上から履く物を考えた。それが日本のスリッパだという言うのだ。こうしたスリッパの起源はともかく、一定数の西洋人は、人前で靴を脱ぐことを屈辱だと考えていることは確かだろう。