2019話 新聞の読書欄

 年の終わりに、新聞では2023年回顧をしていた。読書欄でも、書評委員によるこの1年の推薦書が数十冊紹介されているが、「読みたい」と思った本は1冊もない。書店で現物をチェックしてみようとか、ネットで目次を読んでみようとか、少しでも調べたいと思った本は1冊もない。新聞の読書欄は毎週目を通しているものの、「読みたい」と思う本は年に1冊あるかどうかだ。読書欄にめぼしい本はないが、書籍広告なら、多分年に10冊くらいは気になる本があり、のちに内容を確認して買うこともある。

 読書欄に読みたい本がないのは、私の読書の趣味が世間の人と違うから、ではない。世間の人が読みたがる小説類は読書欄では「おまけ」程度にしか取り上げないからだ。新聞(私の場合は朝日新聞だが)、の読書欄がつまらないのは、「わが新聞の、知的レベルを証明するために、良書を紹介する義務がある」といった啓蒙思想と、そういう方針のもとに集められた大学教授たちの知性が、研究者レベルの向学心や知性に届かない我々(と言っておこう。庶民ということばは使いたくない)と乖離しているのだ。

 大学教授たちが喜ぶ本は、そのレベルの人たちなら自分で探せるのだから、新聞で紹介記事を載せる意義はない。「誰もが喜ぶ本」などないのだが、もうちょっと何とかならんかいつもと思う。週刊誌の読書欄の方がずっとおもしろいのだが、昔から雑誌をほとんど読まないから、週刊誌や夕刊紙の読書欄から遠ざかっている。

 新聞の読書欄を私好みに改革するには、書評のシステムを根本から変えた方がいい。朝日新聞の書評委員の話によれば、新聞社が新刊を100冊ほど集めて、そのなかから委員が好みの本を選んで、紹介記事を書くというシステムだそうだ。いままでのそういうシステムを改めて、委員は取り上げる本を自分で選ぶようにする。そして、ここが重要なのだが、書評委員から大学の教員や研究所などの職員を除外して、ただの「本好き」を書評者にする。

 新聞の読書欄は、私には参考にはならないから、まあ、どーでもいい存在なのだが、私の好みに合わない理由はもうひとつある。

 私は新刊にこだわらない。本を選ぶ基準は、読みたい本かどうかということだけだ。「古今和歌集」であれ、井伏鱒二であれ、寺山修司であれ、読みたいと思う本があれば、内容を点検し、買い、読む。それだけだ。だから、私が買う本の多くは、出版後十数年から数十年たっているものが多い。新刊書偏重は、かつては「書店で求めやすい」という理由があったが、書店が減った今では、新刊であるか既刊であるかはネット書店では関係ない。先月出た本ならどこの書店でも買えるわけではなく、5年前に出た本だから書店でもう手に入らないというわけでもない。現在も流通していれば書店に注文することもできるし、ネット書店で買うこともできる。だから、書評欄が新刊書にこだわる意味はないのだ。

 私が書評を参考にしない理由は、多分、自分の好みが決まっているからかもしれない。ネットなどに、「旅の本100」といった推薦書リストがよくあるが、「ああ、そういう本があるのか。読んでみたいなあ」と思ったことは、ない。『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ)やブルース・チャトウィンとか星野道夫などの本がよく推薦書に選ばれるが、読む気はない。もしかしておもしろいのかもしれないが、ほかに読みたい本がいくらでもあるので、手にする余裕がない。

 というわけで、いつも好きな本を読む。未読の本がいつもひと山あり、幸か不幸か既読の本も内容を覚えていないことが多くなり、未読と何ら変わらない。で、再読する。先日、古本屋で開高健関連の本をみつけて、「おもしろそうだ」と思って買ったのだが、その本はすでに書棚にあった。そういう日々の連続です。読みたい本を買うから、いつも同じジャンルの本を選び、同じ本を買ってしまうのだ。