2020話 上を向いて歩こう

 永六輔は最後まで放送作家だったと思う。それは、「正しいことよりも、おもしろいことを優先する」ということで、おもしろくない事実は、脚色しておもしろくするということだ。1を10にする場合もあれば、ときには0を20にすることもあるのだが、数多い永六輔本は、どれも絶賛本ばかりだから、永六輔の発言はすべて真実として語られすぎている。

 最晩年のよく語っていたリハビリの話がある。

 足の骨折とパーキンソン病のせいで、歩行が不自由になった晩年にリハビリを受けていたときのことだ。インドネシア人の介護士がいう。

 「永さん、下を向いていないで、上を向いて歩きましょう。日本には『上を向いて歩こう』っていう歌がありますよね。知ってるでしょ?」

 「知りません」と、照れ隠しでウソを言ったのだが、本当のことを言った方がいいかと反省し、後日訂正する。

 「この前、『上を向いて歩こう』を知らないと言いましたが、ウソです。知っています」

 「そうでしょ。じゃあ、歌いながら歩く訓練をしましょう」

 「実は、あの歌の詞を書いたのはボクなんです」

 「またウソをつくんですか?!」

 テレビでもラジオでも、多分3回は聞いていると思うこの話。永の創作だとバラしたのは、娘の永麻里。父がうつむき加減に歩いているから、「ほら、上を向いて」と声をかけただけというネタで、コントを作ったのだ。「その創作力に驚く」と娘は書いているのだが、私がそれをどこで読んだのか記憶がない。世話したインドネシア人はいないし、リハビリをするのは介護士ではなく、理学療法士なのだといった細部も指摘している文章だった。このように、針小棒大はマスコミの世界ではよくあることだ。 

 もうずっと前のことだが、ラジオで「上を向いて歩こう」の誕生の話を永自身がしていた。某音楽評論家は、「あれは、60年安保の挫折を歌ったものだ」と書き、永の死後テレビではそのままの「受け売り」解説をしていたのだが、本人はこう語っていた。

 その昔、永六輔中村メイコに恋をして、プロポーズをしたのだが、その当時メイコはすでに神津善行と結婚直前だったので、そう伝えた。

 「悲しいなあ。帰り道、涙がこぼれそうだよ」と永がいうと、「じゃあ、上を向て歩けばいいじゃない。涙がこぼれないわよ」とメイコ。

 この話、いつもの創作かなあと疑っていたら、「徹子の部屋」に出演した中村メイコが、永六輔との思い出話として、このプロポーズの話をしていて、ふたりの話はまったく同じだった。つまり、この話は事実だろうと認定できる。

 永六輔について、大橋巨泉が興味深い話をテレビでしていた。若いころの永六輔は「ケンカの六輔」と言われるくらい、番組制作者とすぐケンカをして番組をやめていたのだ。番組をすぐやめる理由は、「飽きっぽいから」というのは従来の説明だったが、巨泉はこう解説する。

 番組スタッフにごねることで、スタッフの愛を自分だけに向けさせたいからだという。巨泉の解説を脇で聞いていた永六輔は反論も解説もせず、ただニタった笑っていた。はっきりと「そうだ」と認めたわけではないが、一緒に仕事をしたことがある番組関係者の話でも、自分だけに注意を引きたいがために、だだをこねてスタッフを困らせるということをやっていたらしい。これは、赤ん坊が泣き叫ぶ、暴走族が騒ぐというのと同じ心情のようだという。あまた出ている永六輔本には、こういう話は出てこない。天才永六輔絶賛本ばかりだ。

 今思い出した話を追加しておく。萩本欽一の「欽ちゃんのドーンといってみよう!」(ニッポン放送、1972~1979)に、永は匿名でコントを投稿していたというのだ。ラジオで誰かが言っていた話なので、真偽はわからないが、投稿されたコントのひとつは今でも覚えている。

 「かーちゃん! とーちゃんが帰って来たよ!」

 「今度は、もっと遠くに捨ててくるんだよ」