1589話 忘れられた人

 「人は二度死ぬ」という言葉がある。一度目の死は、肉体が死んだとき。二度目の死は、その人を記憶している人が死んだときだという。この言葉を広めたのは永六輔であり、一部には松田優作だとする説もあるが、「出典不明」とするのが正しいような気がする。永六輔は生涯、放送作家だったと思っている。その意味は、おもしろい話を分かりやすく話すというのが彼の身上で、例えばある発言を「この話はギリシャの哲学者ディオゲネスが、その著書『世界市民の原像』のなかで・・・」などと話し出すと、聴取者がついてこられなくなるから出典を明らかにしないのか、あるいは出典などどうでもいいと考えていたのかもしれない。「淡谷のり子が・・・」と、説明なしで紹介できる人以外は、出典を明らかにしていないと思う。

 人々の記憶から消えた人ということでは、マリー・ローランサンの「鎮静剤」という詩を思い出す。堀口大学の訳詩集『月下の一群』(1925年)に収められた詩だが、詩にはまったく興味のない人の目と耳にこの詩が入っていったのは、寺山修司が広めたからだ。そういう意味では、いかにも1960年代的な雰囲気のある詩だ。ちなみに、ネット上でこの「鎮静剤」を紹介している人は多いが、出典を明記している人は非常に少ない。世の中、そういうものだ。

 

 鎮静剤
               マリー・ローランサン 
               堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 柄にもなく、フランス人画家の詩を紹介したのは、「記憶に残る人」についていろいろ考えるようになったからだ。大学生に限らず、何か、誰かを調べようと思った時、インターネットを使うことが多い。そして、ネットでヒットしない人は、あたかも「存在していない人」と同じことになってしまう。別な例だが、ガイドブックで紹介されていない場所は、旅行者にとって「存在しない場所」と同じであるということなのだ。旧時代の友人は、「ネット上に名前があろうがなかろうが、その人の価値に関係ないだろ」と正論を言うのだが、現実の問題として、インターネットを頼りに生きている人たちにとっては、ネットでヒットしない人は「そもそも存在しない人」か、「忘れ去られた人」なのだ。

 だから、私はかつて生きていた人に、ネットのなかで今も生きていてほしいと思い、意識的にその人たちの名前をブログで取り上げている。「アジア文庫の大野さん」をはじめ、2021年に急逝したベトナム研究の中野亜里(大東文化大学)さんや、宗教民族学など多才な山田仁史(東北大学)さんなどの名や、実名は挙げていないが前回まで書いていた「カラスの十代」でも、意識的に、もうこの世にいない人たちのことを書いた。

 私のブログの読者は極めて少ないから、検索しても簡単にヒットしないが、それでもとにかく書き残しておけば、誰かの記憶に残るかもしれない。そうすれば、二度目の死を先延ばしできる。永六輔松田優作も、マリー・ローランサン堀口大学も、二度目の死を迎えていないのは、人々が語り継ぎ、記憶が継承されているからだ。