1303話 スケッチ バルト三国+ポーランド 22回

 ソビエト時代のエストニア展から その2 KALI

 

 「ソビエト時代のエストニア展」の会場前に、黄色いタンク車が止まっていた。展示場唯一の職員は、このタンクの前で、何かの飲み物も売る販売員でもある。両方の仕事ができるほどヒマだということでもある。

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 これが、タリン駅。カメラを180度回転させると・・・

 

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 回顧展をやっていて、黄色いタンク車が停まっていた

 

 黄色いタンクにはKALIと書いてあるが、その名に心当たりはない。コップに注がれた液体を飲んでいる人を見て、「もしや・・・」という気がした。好奇心が刺激されて、私も飲んでみた。遠い記憶を掘り起こすと、「多分あれだな」という心当たりがやはりあった。

 黒い色の冷たい液体だ。味は・・・、気が抜けたコーラだな。コップにコーラを注ぎ、ちょっと水で薄め、そのまま数時間放置して炭酸を抜いたような味。甘いが、甘すぎないこの液体を、遠い昔に飲んだことがある。ショーガを入れれば、関西の夏の飲み物「冷やしあめ」にやや似ているかもしれない。

 1975年、夏。モスクワ。おお、44年前だ。モスクワの街を歩いていると、もはや日本では時代遅れになったジュースの自動販売機を見つけた。細長い箱の上に球形のガラス製ドームがあり、ジュースが噴水のように吹き上がっている。カネを入れると、置いた紙コップにジュースが注がれる。こういう自販機を、専門的には噴水式ジュース販売機と言うそうで、私の記憶では1960年代前半くらいまでは見かけたが、70年代に入るとビン入りの飲み物販売機が現れ、そのあと自販機は缶入り飲料の時代になり、現在は飲み物にもよるがペットボトルが主流になる。

 だから、1975年のモスクワでこの噴水式自動販売機を見かけとき、まず「おお、懐かしい。こんなところに・・・」という驚きで、つぎに、「どんな飲み物なんだろう?」という疑問があり、機械にカネを入れたのだが、そんなコインを自分で持っていたのかどうか記憶がない。その時の私は、横浜から船と鉄道と飛行機を使ってロンドンに行く片道ツアーの参加者だったから、基本的に現金は必要なかったのだが、数ドルほど両替したのだろうか。それとも、ガイドという名の監視員(日本語を学ぶ大学生だった)が払ってくれたのかもしれないが、カネに関する記憶はまったくない。しかし、この飲み物の味はよく覚えている。強く記憶に残るほどの強烈な味ではないが、覚えていた。

 ロシアの旅から帰ってから読んだ本で、その飲み物はクワスという名だと知った。ライ麦麦芽を発酵させた飲み物で、ウィキペディア日本語版では「アルコール1~2.5%」とあるが、英語版では「0.5~1.0%」となっている。私はアルコールに極めて弱い体質なのだが、その私でもアルコールは感じた記憶はない。

 クワスはロシア語でKBACと書き、英語やラトビア語ではKVASS、エストニアではKALI、リトアニア語ではGIRAという。ロシア以外でも旧ソビエト圏でも広く飲まれているようで、バルト三国でも飲まれているが、どうやらエストニアがもっとも多く消費されているらしい。エストニアで飲んだKALIも、アルコールは感じなかった。

 とりたてて「うまい!」という味ではないが、暑い夏にこの冷たい飲み物は似合う。

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 右の女性が回顧展スタッフ兼KAKI販売員。

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 これがKALI。この量しかないのではなく、暑いからゴクリと飲んでから、「ああ、写真だ」と気がついたからだ。写真撮影に熱心ではないのが、インスタ映えとは無縁の私だ。値段をメモしなかったが、1.50ユーロだったような気がする。

 

 ちなみに、1975年のモスクワが、私の旅の最高北緯(55度45分)だった。今回の旅で行ったエストニアのタリンが北緯59度26分だから、もっと北に来てしまったことになる。これ以上北には、多分行かない。

 

 

 

1302話 スケッチ バルト三国+ポーランド 21回

 ソビエト時代のエストニア展から その1 CMなど

 

 1940年から1991年までの、ソビエト占領下のバルト三国の暮しはどんなものだったのかという興味はずっとある。占領時代にも、日本人である私は旅行をすることはできたのだから、その気になれば実際に見ることはできた。しかし、社会主義国をほとんど旅していない。その気にならなかったからだ。社会主義国に行けば不愉快なことだらけで、官僚的発言などからすぐにケンカをしてしまいそうな予感がして、行く気がしなかったのだ。もう社会主義国ではなくなったから、安心して旅ができる。そこで、ソビエト時代の生活がどんなものだったか知りたくなったのだ。

 外国の鉄道駅には、日本と違って改札口というものはないことが多いので、プラットフォームの先が道路になっていることもある。線路が多くある路面電車の駅という感じというのが、エストニアのタリン駅だ。国の中央駅のはずだが、入口ドアなどというものはない。プラットフォームに屋根もない。路面電車の停留所と変わらないのだ。

 タリン駅探訪に出かけたら、線路のすぐ近くに何をやっているのかさっぱりわからない建物があり、入り口に近づくと、英語の表示も見えた。エストニア語の表示と同じデザインだから、その英語訳だろう。

EXHIBITION

BACK IN TIME

LIFE IN SOVIET ESTONIA

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 「ソビエト時代のエストニア展」か、おもしろそうだ。入場料9ユーロは、高齢者割引で5ユーロになった。

 会場に入ってすぐ左手にラーダがある。ロシア製の乗用車で、昔はロシア国内で売っているジグリの海外ブランド名だったが、いまはラーダに統一して販売しているという事情は今回調べるまで知らなかったが、ラーダという車種は、なぜか昔から知っている。会場のクルマは、四角いライトだから1980年から生産が始まった2015というタイプだ。

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 会場内にソビエト時代のアパートの室内が作ってあり、誰かの家に侵入したような感じだ。雑誌がいろいろあり、日本なら、「サンデー毎日」とか「週刊平凡」とか懐かしい雑誌が置いてあるのだろうが、私にはもちろんわからない。台所は近代的で、ラーダの時代を考えれば、1980年代、独立するちょっと前の住まいなのだろう。串焼き用のロースターがある台所というのが特徴か。

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 玄関の棚に、何かの液体を入れて運ぶ容器があったので、会場唯一の職員に「あれは何か」と聞くと、「さあて、ビールかワインを買いに行く容器でしょうかね。私が生まれる前のことなので、わかりません」と正直に答えた。アルバイト学生のような若い美人職員は知らない容器なのだ。30年以上前の時代の展覧会の入場者が中高年だから、会場スタッフが若くても構わないということだろう。

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 窓の外にニシンのような魚を干している光景にリアリティーがある。昔の食堂や商店も再現されているが、いつもこういう商品が置いてあったのか、それとも格好をつけただけか。エストニアでは昔の話を聞く機会がなかったが、ラトビアリトアニアでは、輸入品など高価なものを除けば、国内で生産できる食料品は、不足なく買うことができたという。この「不足なく」というのがどの程度のことかという問題がある。

 「ロシアと違って、いつも長蛇の列を作って買い物をしていたわけじゃないですよ」と、ラトビアであった初老の人が話していたが、時代や地域による違いもあるだろう。経済事情が悪化すれば、輸入品は減るし、政府高官など権力者の独占となる商品もあっただろう。現在の物質生活と比べれば、「昔は満足な品物はほとんどなかった」ともいえるが、詳しい事情は私にはまったくわからない。

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 写真といっしょに、当時の商店も再現している。

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 食堂は、日本で言えば、あらかじめ作った料理を出す大衆食堂なのだろう

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 そろばんが日本独自のものだと思ってはいけない。

 

 ソビエト時代のテレビCM集というのを長々とモニターで再生していた。こういう画像資料がありがたい。CMの映像を見ていると、西側世界と大した違いがなく、ソビエト占領下という感じがしないが、モーターボートのCMというのは、誰のためのCMなのかが気になった。いかにも「ソビエト占領下の社会主義国のテレビコマーシャル」という感じがしないのがいぶかしい。釈然としないので、モニター脇の英語解説文を読んでみる。「各企業や団体の年間予算の1%を広告費に使わなければいけないという決まりがあったために、視聴者を考えないつまらないCMが放送された」というようなことが書いてあった。モーターボートのCMも、そういう事情で作ったもののようだ。うん、おもしろい。英語の解説もあるのがありがたい。日本の何かの展示会で、このように英語の解説がついていることはまれだろうな。

 「当時話題のテレビドラマや映画」というモニターがあって、西側で作られたドラマが流れていた。西部劇など外国ドラマもある。知らない映像のなかに、見覚えのあるシーンがあった。「エマニエル夫人」だ。1974年のフランス映画。主演のシルビア・クリステルが当時の日本で話題になったのだが、エストニアでも、か。政治的には問題ないので上映されたのか、あるいはかなりカットされたのかということはわからない。

 

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 ビールなど飲料のCMが多かった。

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 1974年当時に生きていた人は、この映像をちょっと見ただけで、大きな籐の椅子が頭に浮かぶはずだ。

1301話 スケッチ バルト三国+ポーランド 20回

 日本

 

良さそうなホステルに行き、この先1週間ほど空室があるかどうか聞く。「ちょっと調べてみますね」とスタッフがパソコンに向かい調べていて、その間に話しかけてくる客がいて、電話がかかり、「いいですよ、急ぎませんから、そちらの用件を先に」と私が言う。1日だけの空室確認ならすぐに済むのだが、何日も連続だと、ちょっと時間がかかる。

「大丈夫ですね。ベッドをおさえますか?」

「はい、お願いします」と言いつつ、パスポートを出すと、

「Oh, Japan!  Cool!」

そう言われたことが、2度ある。NHKの回し者か(NHKBS1  “Cool Japan 発掘!かっこいいニッポン”)。「日本=かっこいい」という時代になっているんですね。

あるいは、こういう体験を、昨年のプラハでも、今回のバルト三国の旅でもしている。安宿のリビングルームで6人ほどの旅行者と雑談が始まり、しばらくして「ところで、どこの出身?」と聞かれて、「日本」と答えると、“Uhh Cool!”。これはつまり、彼らが日本人旅行者に出会う機会が少ないということでもあるだろう。日本人旅行者と話す機会が少ないから、「おお、珍しい、日本人か!」ということでもある。昔と違って、安宿に泊まる日本人が少なくなったのは確かだ。日本人が少ない上に、いつもスマホに向かっているので、旅行者と話をしている姿を見ていない。

「8月にモスクワに行かなきゃいけないんだ、絶対」

スペイン人の大学生が言った。エストニアのタリンでのことだ。入手困難なコンサートチケットを幸運にも手に入れたので、留学先のスウェーデンから出かけるのだという。誰のコンサートか知らないが、聞いてもどうせ知らない人物(あるいはグループ)だろうから、聞かなかった。

「モスクワのあと、日本に行ってみようと思うんですよ。日本も絶対行きたい国なんですが、普通に飛んでもつまらない。だから、シベリア鉄道に乗って、途中から中国に入り、上海かどこかから船で日本に向かうというのはどうです?」

旅行相談を受けた私は、首を振った。

「鉄道は高い。とんでもなく高く、中国からの船も安くないよ、調べてごらん」

大学生はスマホで鉄道料金を調べて、「ウォー、なんでこんなに高いんだ」と驚いている。私も、今回バルト三国シベリア鉄道経由で行こうかと考えて、料金を調べてあまりに高いので断念した。鉄道は飛行機よりも高いというのは、いまや常識だ。

「おもしろそうなルートで旅すると高くつくもんだよ。往復切符で旅をするのが、いちばんつまらなくて、いちばん安い。だから、比較的安くておもしろい旅をしたいなら、モスクワから日本に飛ぶ片道の安い航空券を探して日本に飛ぶ。もし、あればだけどね。そして、日本から中国に渡り、陸路でベトナムなど東南アジアに向かうというのは、どう?」

「うーん、悪くない。あっ、ビザはどうかな。えーと、調べてみるね。スペイン人は、3か月ビザなしで滞在できる。よし、問題なしだ」

ベネズエラの若者も、「日本を見たいんだよね。ぜひ行きたいんだけど・・・」と言った。しかし、その表情は暗い。「観光でもビザがいるんだ。ビザを取るには、6000ユーロだったか、かなり高額の貯金があることを証明しなきゃいけないんだ。ただちょっと旅行するだけでも、まとまったカネを作らないといけない。日本に行けるのは何年先になるか・・・」

私が日本人だと知ったポーランドの高校生。

天皇が代わりましたね。政治は、右翼の安倍晋三が力を持ち続けているけど、それで日本は大丈夫ですか?」

日本の首相の姓名を知っていて、すぐさま正確に口にできることに驚いた。とくに日本を研究しているとか、日本マニアというわけではない高校生だ。

リーガの駅前、横断歩道で信号が変わるのを待っていたら、30代後半くらいの女性に声をかけられた。

「あなた、〇〇でしょ、そうでしょ!」と日本人らしい名前を何度も口にしたが、その名に心当たりはない。ラトビアで有名な日本人の名前なのか、それともなにかの詐欺か?

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  上段右のTAKE6は、アメリカのコーラスグループ。下段のANA MOURAはポルトガルのファド歌手。CDを持っている歌手のコンサートだが、たいてい日程が合わない。ラトビアのリーガ。

 

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 ラトビアは刺繍や毛糸の編み物などの手工芸品で有名らしいが、この窓の写真を撮っただけで、店には入らなかった。

 

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 エストニアのタリンを歩いていたら、東アジア風のこういう大きな家に出会い、「アジア趣味の成金の邸宅か?」と、その正体が気になって正面にまわると、中国の公館だとわかり、「あ~、なんだ」。

 

 

1300話 スケッチ バルト三国+ポーランド 19回

 旅行者たち その2

 

メキシコ人 エストニア・タリン

 ときどき世間話をする宿のスタッフが、夜の10時ごろ「そろそろ帰るわ」と言ってリュックを片方の肩にかけた。朝8時前にはすでにウンターにいたのを見ているから、「長い労働時間だったね。今日は何時間の勤務だったの?」と聞いた

 「労働? あたし、ここで働いているっていう気がしてないの。毎日、いろんな人と会って、おしゃべりして、教えてあげたり教えてもらったり、笑ったり、議論したりしているから、労働しているという感覚はないのよ」

 ゲストハウスのスタッフは、自分の旅をひと休みしてしばらく定住している人が多い。資金稼ぎをしたり、旅行計画の立て直しをしたりするのだが、基本的に人間が好きな人が多い。他人と触れ合うのが苦手という人は裏方の仕事はしても、カウンターに座る仕事はあまりしない。人が好きで旅が好きだという人が、安宿にしばらく定住する。給料はあまり良くないだろうから、資金稼ぎと言う意味ではあまりいい仕事ではないが、「労働とは思えない楽しい日々」を過ごすには悪くない。

 私はスマホを持たない旅行者だから、日本で宿を予約したラトビア以外では、いきなり安宿に行き、「部屋かベッド、あります?」と聞く昔ながらのスタイルを取っている。だから、「残念ながら満室で・・・」と言われるのはよくあることだ。「この近くで、どこかいい宿は・・・」と言うと、地図を広げて「ここか、あるいはここに行ったら、もしかして部屋があるかもしれませんよ」などと言いつつ、地図に印をつけて、宿の名前を記入してくれることもある。なかには、「ちょっと待ってくださいね。えーと、あそこは、きょう、部屋があるかなあ・・」などと言いながら、スマホで近所の安宿の空室状況を調べ、「あっ、ありますよ、予約します?」と親切に面倒を見てくれるスタッフもいる。

 だからこそ、リーガのあの“ソビエト”ホステルに腹が立つのだ。

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 タリンの街の向こうに港。フィンランドまですぐだ。ただし、港の向こうに見えるのはタリンの半島でフィンランドではない。

中国語人 リトアニア・ビリュニス

 宿のリビングルームで旅のメモを書いていたら、「ええ、ライターです。旅行記を書いているんです」という英語が聞こえてきた。ノートパソコンを広げている40前後くらいの女。明らかに東アジア出身という顔つきの旅行者と、西洋人の顔をした旅行者が話をしている。「いえ、英語じゃないです。原稿は中国語で書いています。旅先から原稿を出版社に送りながら旅行をしています」。

 その顔つきから、「多分、中国語人だろう」という予測はついていたが、台湾人か香港人か中国人(中華人民共和国国民)かの区別はつかなかった。中国系アメリカ人というような英語ではなかった。香港人の英語は、中国系シンガポール人の英語(シングリッシュという)のように早口で語尾が消える英語を話す人が多いので、「香港人説の可能性は低いよな」などと想像していた。旅先で出会った人の背景を、その言動から想像するという遊びを日常的にしている。駅やバスターミナルなどで聞こえてきた言語が、いままで聞いたことのない響きだと好奇心がより強くなり、その人たちに「ねえ、今話しているのは何語ですか?」とたずねたくなる。

 ちょっと離れたテーブルで話をしている中国語人ライターは、いままでの冒険旅行の自慢話を始めたので、話しかける気分が失せた。私は、「〇〇に行った。どうです、すごいでしょ」というだけの旅行体験談にはほとんど興味がない。とはいうものの、日本人以外のアジア人の外国体験記は読みたいという好奇心はある。もう20年以上前になるかもしれないが、台湾人女性のサハラ砂漠旅行記を読んだことがある。その本の著者名もタイトルが思い出せないのだが、ヨーロッパで暮らしている画家が男といっしょにアフリカに行った話だったかもしれない。その本は、希少価値はあると思い買ったのだが、想像通りあまりおもしろくはなかった。

 日本人が書いた旅行記ならその内容に想像はつくが、日本以外のアジア人の旅行記なら、どういうカルチャーショックがあるのか、何に不満があるのかといったことなどを知りたい。昔と違って今はネット上に旅行記が発表されているから、中国語や韓国語がわかればさまざまな体験記を読むことができるのだろうが、翻訳アプリを使ってこまめに読むという作業はまだしていない。まあ、どうせ食べ物の写真と自撮り写真ばかりだろうと思うのだが・・・。

ブラジル人 リトアニアビリニュス

 宿のキッチンで日記を書いていると、向かいの席に男が座った。スーパーで買ってきたトマトソースのパスタを電子レンジで温めたところだ。

 「おいしい?」

 「うん、悪くない。安いしね。レストランでひとりで食べるのはつまらないし、高い。ここなら、こうやって、誰か話し相手がいたりするし」

 「いままで、どういう旅をしてきたんですか」

 「ブラジルから北欧に飛んで、ここまで南下して・・・」

 「ブラジルから、はるばる!」

 日本人にとって南米はたしかに遠いが、ブラジル人にとってヨーロッパは、東アジアに行くよりもずっと近い。

 彼は前回のヨーロッパ旅行でポルトガルに行ったというので、ポルトガルの話をした。私が強く印象に残っているのは、ポルトガルのテレビ番組にブラジル制作のものが数多くあったということだ。連続ドラマもそうだった。音楽番組もあった。

 「そういえば、ガル・コスタのスタジオライブも放送していたし・・・」と思い出を話した。

 「ガル・コスタを知っているんですか。ボク、大好きですよ」

 「彼女は有名歌手だからね。嫌いじゃないけど、『まあ、悪くないな』という程度かな。サンバが好きだから、ブラジルの歌手で一番好きなのは、なんといってもクララ・ヌネスだ」

 「えーと、よく知らない歌手だな。たしか、母が好きだって言っていたような気がするんだけど」

 そこで、はっと気がついた。サンバ歌手クララ・ヌネスは、1983年に40歳で死んだ。麻酔医のミスだった。そのちょっと前に彼女の歌声に出会い、夢中になって聞いているときに、彼女の突然の死を知った。1983年といえば36年前だ。今、私の前でパスタを食べているブラジル人が生まれるずっと前のことだ。

 「どんな歌を歌っていた人なのかも知らないんです」というので、私はいくつかの曲名を上げたが、まるで心当たりがないようだった。試しに超有名歌手の名を挙げてみたが、カルトーラ(1908~1980)も、ネルソン・カバキーニョ(1911~1986)も、彼が生まれる前に死んでいる。ベッチ・カルバーリョは、たまたま今年4月に死んだばかりなので、「名前は知っている」といった。

 サンバはその全盛期をとっくに過ぎた音楽ジャンルであると同時に、下層階級の人たちが好むジャンルなので、中産階級以上の人は初めから興味はない。現在のサンバは、「観光客を相手にしたカーニバルの音楽」でしかない。

 「MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ、ブラジルのポップ音楽のこと)じゃなくて、サンバとかショーロのような古臭い音楽が好きで、そうだ、バイーアの音楽も・・・」などと話していたら、「日本人が、なぜブラジル音楽にそんなに詳しいんですか?」といぶかしげだった。

 「詳しくはないさ。少し知っているだけだよ。日本にも、世界にも、ブラジル音楽ファンは多いよ。キミが想像している以上に、ブラジルの音楽は世界に広まっている。すごい国なんだよ」

 

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 ワルシャワから夜行バスでリトアニアビリニュスに着いた。幸運にも、この宿にベッドがあった。「チェックイン時刻までまだだいぶありますから、リビングルームで休んでいてもいいですよ。バスルームは奥にあります。ご自由にお使いください」。そういうやさしい声をかけてくれた。

 ヒッピー時代を思わせるホステル・ジャマイカは、鉄道駅やバスターミナルに比較的近く、1段ベッドだから狭苦しさがない。ベランダがある2階リビングで毎日話をしていた。星条旗を掲げているのは、かつての社会主義時代には、アメリカは自由の象徴だったからだと思う。

 

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 宿のすぐそばにハレス市場がある。建物2階は飲食店街。スーパーマーケットも近くにあり、抜群のロケーションだ。宿に台所があり食器もあるから、長居をしたくなる。

 

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 街を散歩していたらハレス市場の昔の写真があったが、外見に変わりがないのでおもしろくはない。

 

 

 

1299話 スケッチ バルト三国+ポーランド 18回

 旅行者たち その1

 

アメリカ人 ポーランドワルシャワ

 ワルシャワの安宿で旅行者の世話をしている若い男がいて、しかし従業員というわけでもなさそうで、顔つきは東南アジア人なのだが、英語がうまい。しかし、フィリピン人風でもない。正体不明の若者と立ち話をした。

 「ここで働いているの?」

 「いや、退屈しのぎのボランティアです。夜はときどき、あそこで歌ったりしてね」と、宿のカフェテリアの方に顔を向けた。

 「このあと、どういう旅をするの?」

 「北上して、バルト三国。そしてストックホルムから、アメリカに帰ります」

 「アメリカに住んでるの?」

 「そう、ボク、アメリカ人だから。生まれも育ちもアメリカ。両親はカンボジア出身だけど」

 アメリカ生まれというが、その英語はアメリカ風ではないことに違和感があったが、私が会ったことがあるアメリカ生まれの日系人の英語も日本語訛りがあったから、育った環境によってそうなるのだろうか。

 「カンボジアには行ったことがあるの?」

 「いや、まだ。行きたいとは思っているんだけど、そのチャンスがなくて・・・」

 「カンボジア語は?」

 「いつもうちに親戚や、両親の友達が遊びに来ているから、会話はかなりわかります。話すのはそれほどうまくないけど、カンボジアにしばらくいれば、かなり話せるようになると思いますよ」

 「読むのは?」

 「全然。勉強したことがないから」

 「カンボジアの文字は難しいよ、うんざりするくらい」

 「勉強したことあるんですか?」

 「うん、ちょっとね。だけど、もういやだ、あんなややこしい文字は」

 東京外国語大学カンボジア語特別授業を受けたことがあるのだが、文字のややこしさにうんざりした。タイ文字なんか簡単だと思えるほど、複雑怪奇な文字だ。

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 ワルシャワ、スケッチ。

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 ワルシャワ蜂起記念碑。第二次大戦中、ナチス・ドイツに占領されていたポーランドを解放しようと、ポーランド国軍と市民がソビエトの支援を受け蜂起したものの、この運動が反ドイツであると同時に反ソビエトでもあるとわかったソビエトは手を引いた。ドイツに反旗を翻したということでドイツの怒りを買い、支援者を失ったワルシャワナチスによって徹底的に焼き払われた。

 

チェコ人 リトアニアビリニュス

 宿のリビングルームでちょっと話をして、彼がチェコ人だとわかったが東南アジア系の顔つきだから、「そうか、ベトナム系か」と言うと、「なんでわかるの?」といぶかしげだった。

 「去年の秋、しばらくプラハにいたから、想像はつくんだよ」

 チェコにいるアジア人といえば、ベトナム人だとすぐに想像がつく。20代後半の、その男の話。

 「6歳のとき、両親とともにチェコに来たんです。父は若い時にチェコで働いていたことがあって、結婚して、子供を連れて、またチェコに行ったというわけで・・・」

 チェコスロバキアは同じ社会主義国ということでベトナムとは深い関係があり、留学生や労働者として、多くのベトナム人チェコスロバキアに来た。1990年前後の独立の動きの中で、ベトナム人労働者はいったん帰国したが、政情が落ち着いたら、「チェコ語がわかる優秀な労働者」ということで、移住が認められチェコに戻ってきた。去年チェコに行ったから、そういう歴史はすでに頭に入っている。

 「6歳の子供が見たチェコはどうだった?」

 「まったく環境が違うでしょ。風景も気候も、言葉もわからないし、友達もいないし、苦労しました。弟はチェコで生まれたから、チェコ語だけ。家の中でもベトナム語は話さない。」

 「チェコにおけるベトナム系住民の地位というのはどうなの」

 「ボクが子供のころはひどかったですよ。いじめられてね。ところが、2008年に、ベトナム系住民が立ち上がって、『ベトナム人を理解してもらおう』という運動をやったんです。料理教室とか歌や踊りの会を開いたりとか。そういう活動をやったおかげで、それ以後、目立った差別行為というのはなくなりました。まったく差別がないというわけじゃないけど、ボクは銀行に就職できているし・・・」

 彼の言動から、立派なチェコ人になろうとしているのはわかる。しかし、外見的には依然としてベトナム人だ。顔つきの話ではない。首から下げた太い金のネックレスだ。シャツのボタンをはずして、これみよがしに金を見せている。アジアでは、タイ人もベトナム人も(中国と日本のヤクザと、一部の野球選手も)、そういう趣味がある。

 帰国後、ベトナム研究者にこの話をすると、「チェコベトナム人は勝手放題をやったから、その反撃を受けていたんですよね」と言ったが、詳細を聞く時間がなかった。ベトナム研究のフィールドとしても、チェコは興味深い場所だ。

 

 

 

 

1298話 スケッチ バルト三国+ポーランド 17回

 ラトビアの元銀行員と人歌手 その3

 

 リーガで出会った元銀行員と歌手の話は前回で終わるはずだったのだが、更新してすぐに赤いジュースの話を思い出した。数行の原稿なら付け足してもいいのだが、書きたいことがもう少しありそうなので、続編を書くことにする。

 カフェテリア方式のレストランだと、レジ近くにグラスに入った飲み物が何種類か用意されている。水や牛乳はすぐにわかる。オレンジジュースもわかるのだが、赤いジュースの正体がわからない。わからないから飲んでみたのだが、ほのかに甘いだけで、酸味や苦みといった特徴はない。このジュースの正体を知りたい。

 「これ、何のジュースだと思う?」

 元銀行員と歌手に、レストランで撮った写真を見せた。

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 赤いのがクランベリー・ジュース。右の料理は、ズッキーニのチーズ焼きと、ゆでたジャガイモにサラダドレッシングをかけたもの。

 

 「ああ、クランベリー(Cranberry ツツジ科)ね」

 1秒で回答が出た。干したクランベリーはヨーグルトに入れて何度も食べているが、ジュースは飲んだことがない。今、インターネットで、日本でもビン入りのクランベリー・ジュースを売っていることを確認したが、日ごろジュースを飲む習慣がないので、「これはもしかして、クランベリー・ジュースかもしれない」などという推理が働かなかったのだ。

 あの日、エルザとリドで昼食を食べた。カフェテリアスタイルの店だから、客は自分の好みの食べ物や飲み物を選んで支払う。そのときも赤いジュース選んだ。クランベリー・ジュースではない。いままで一度も飲んだことがないが、一度は飲みたいと思っていたジュースがその店にあった。ジュースだけならまったくわからないが、コップの底に短く切った茎が入っているからルバーブだとわかった。この植物との出会いを待っていたのだ。

 ルバーブという植物の名を初めて目にしたのは、日本の新聞だった。もう30年以上前のことだったか、長野の別荘で過ごす西洋人たちがルバーブという野菜を欲しがり、農家に頼んで栽培してもらっているという記事だ。ルバーブの名も知らないし、もちろん見たこともかった。さっそく植物図鑑で確認して、「赤いフキか」と認識した。

 ルバーブタデ科ダイオウ属で、フキはキク科フキ属だからまったく違う植物だが、「赤いフキ」と認識した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%96

 日本在住の西洋人は、フキのような野菜を甘く煮たり、ジュースにするという新聞記事を読んで、「ええ? フキのジュース? まずそうだな」と思った。その後、ヨーロッパの市場やスーパーマーケットで現物のルバーブで出会ったが、バナナのような果物と違い、買ってすぐに食べるというわけにはいかないから、ルバーブを口にする機会がいままでなかったのだ。

 カフェテリアのリドの飲み物コーナーをじっくり見ていたら、コップの底に2センチくらいに切ったルバーブの茎が数個沈んでいる。ルバーブのジュースをトレイにのせた。

 「ルバーブは夏の味よ」とエルザが言った。

 「夏になると、いつも母がルバーブのジュースを作ってくれたの。ルバーブを砂糖水でちょっと煮て、冷めたらレモンを絞り入れる。夏の昼、汗をかいて家に帰ると、冷蔵庫にルバーブのジュースがあってね、ジュースを飲んで、甘いルバーブも食べる。それが、子供のころの夏だったのよ」

ラトビアの飲み物といえば、白樺の樹液があると資料で読んだ。

 「ほんのりと甘い液体よ」

 「売っているの?」

 「ええ、ビンに入れて、店で売っているけど、もう遅いね。あれは、冬の終わりの飲み物だから、今はもうないの」

 日曜日の午後は、そういう話もした。

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  コップの底にルバーブの茎が見える。この時はまだルバーブの話を聞く前だったので、ちゃんと写真を撮らなかった。我がランチは鮭のグリルとピラフ、豆のサラダ。

1297話 スケッチ バルト三国+ポーランド 16回

 ラトビアの元銀行員と人歌手 その2

 

 元銀行員が調べてくれた結果、きょうは鉄道博物館に行けないことがわかった。

「そろそろ行こうか」と、元銀行員。6月初めのそのころは、公園でじっとしていると少し寒かった。3人とも、東京なら冬の服装をしていたが、冷風の公園にこれ以上いたくなかった。

 アパートに戻る道を歩きながら、「きょうヒマだから、リーガの案内をしてあげる。どこか行きたいところ、ある?」とエルザは言ったが、いままで昼は徹底的に歩き回り、夜はいくつかの参考書でリーガの勉強をしたので、狭いリーガはすでにほとんど歩きつくしている。だから、「外国人はまず知らないという場所がいいな」とリクエストしてみた。

 アパートの前で、「ちょっと待ってて」と言って、彼女は犬を部屋に連れて行った。元銀行員はスマホを取り出して、なにやら操作している。

 「ウーバーみたいなもので・・・」

 私はスマホを持っていないが、タクシーを呼んだのだとなんとなくわかる。

 エルザがアパートから出てくると同時に、すぐに車が止まり、3人がタクシーに乗り旧市街に向かった。元銀行員のアパートは、我が安宿から直線距離にして100メートルくしか

 離れていないから、その近所はもちろんよく知っている。我々3人は車を降りた。

 「じゃ、ここで。シャワーを浴びて、寝るよ。30時間以上起きているから、さすがにくたびれた。さよなら」と元銀行員は手を振り脇の道路に入り、我々ふたりは反対方向の歩道を歩き始めた。

 私とエルザは寒風吹く通りに出た。ラトビアの気候は3分で急変する。晴れ間が見え、暖かくなるかと期待していたら、突然の寒風に吹かれる。氷雨が降ることもある。路上のカフェは、椅子の背もたれに毛布が掛けてある。それが6月初めのリーガだった。

 狭いリーガを毎日歩き回っているから、名所や建造物に関しては私の方が詳しい。そこで、エルザは「知る人ぞ知る」という場所に私を案内した。音楽家やデザイナーや役者や作家といったネクタイとは無縁の人生を歩んでいる人たちや、それらのタマゴたちがやってくる店に案内してくれた。そういう店に腰を下ろし、さまざまなことを話した。

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 ビルの谷間の細い路地を入ると、突然こういう空間が広がることがある。できて間もないオフィスビルで、「こういう場所は知らないでしょ?」と外国人旅行者が自慢したら、「知っているわよ」と言われた。このあたりは観光地ではないが、ベルガ・バザールというしゃれた地区だ。

 

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 彼女が連れて行ってくれたカフェ。路地のどん詰まりにある。毛布がひざ掛けにもショールにも使うほど寒いのだが、それでも屋外にいる気持ち良さがある。この日からわずか数日後に、気温30度の夏になるとは思わなかった。

 

 彼女は歌手で、プロダクションの社長でもあると言った。各種機材を買い、バックバンドを持っているとも言った。歌える場所があればどこででも歌うらしい。マーケットが狭いラトビア音楽界なら、歌える場所があるというだけでも幸せなのかもしれない。

 「母親が日本人という友達がいてね、彼女に教えてもらった日本の歌も歌うことがあるのよ」と言って口ずさんだのが、ザ・ピーナッツの「ウナセラディ東京」だった。

 好きな音楽はジャズだというので、「ここ数年は、こういうのをよく聞いているんだ」と言って、ノートに”Charlie Haden ,Nocturne”と書いた。彼女はスマホで調べて、すぐに再生したが、気に入らないらしい。

 https://www.youtube.com/watch?v=7kPPNUFvPw8

 「あたしが好きなのは、こういうの」

 スマホのスピーカーからチャールズ・ミンガスが流れ出した。同じベーシストで、CDショップの「ベーシスト」の棚ではチャーリー・ヘイデンの隣りに置いてあるのだが、私はあまり聞いていない。この曲もまったく知らない。ミンガスは嫌いではないが、特に「いいなー」とはあまり感じないのだ。

 彼女はゴリゴリのジャズが好きらしい。「ゴリゴリのジャズ」と言うのはジャズファンの用語で、豪快にサックスを吹きまくるというような力強いジャズのことだ。私も20代のころはそういうジャズも聞いたし、いまでも聞かないわけではないが、いまはピアノトリオのような「しっとりしたジャズ」の方が好みになっている。考えてみれば、これは音楽の趣味の変化というだけのことではなく、旅の趣味の変化でもあるような気がする。彼女はまだ「ゴリゴリ」の人生を歩んでいるのかもしれないとも思った。いつも全身で生きていくような生活なのかもしれないと思った。

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 「どこかで昼飯を」ということになり、私は隠れ家的食堂に連れて行ってくれるのを期待したのだが、残念ながらきょうは日曜日。有名チェーン店のカフェテリア”LIDO”に行った。彼女は「あまり、おなかがすいてないの」と言ったが、2時間後に「あ~、お腹がすいた」と言い出した。

 

 ふたりでリーガの路地から路地へと歩き、とにかくよくしゃべった。5時ごろになるとさすがにくたびれてきた。朝9時過ぎからしゃべっているのだ。日本語なら何時間しゃべっていても平気だが、英語だとエネルギーの負荷が大きい。ちょうど宿の近くに来たので、「それじゃ、この辺で・・・」と宿に戻ることを告げた。そのときも、そして今も、世話になっていながら申し訳ないと思うのだが、精神的にも体力的にも、長時間の休息を必要としていた。ちゃんとした男なら、彼女のアパートまで送っていくのが礼儀なのだろうが、「ちゃんとした男」ではない私は、そういう礼儀をわきまえていない。

 カフェでコーヒーを飲んだ時に、「あとでユーチューブで見たいんだけど、どう検索すればいいの?」とノートを差し出した。彼女は自分の名前を書きながら、「SNSは?」と私にきいたが、「スマホも持っていないから・・・」と答えた。それは事実なのだが、一方的に彼女の情報だけをもらって申し訳ないという気がした。

 帰国して、ユーチューブで、彼女の名前を検索欄に入れた。このコラムで公開する許可はとっていないが、ユーチューブだから許してくれるだろう。

 Elza Rozentāleの名前で検索すると、いくつものライブ映像が出てくる。そのひとつが、これ。ラトビア色を出したスローな歌もあるし、バラエティーに富んでいる。今さらとは思うが、こういうライブ映像を見ながら話しをしてもよかったな、などと後悔している。

https://www.youtube.com/watch?v=P8gReF97bG4