1515話 電話番号は?

 

 渡辺謙主演のテレビ朝日のドラマ「逃亡者」は、あまりドラマを見ない私が言うのは変かもしれないが、前代未聞、空前絶後の駄作愚作だった。世間の多数派には入らないことが多い私だが、ネット情報を見る限り、このドラマに関しては、私と同じ感想だった人が少なからずいたとわかる。

 あまりにも不出来なので、「どこが悪い」などといちいち書き出せば、批評は長編になる。「西部警察」と同じくらいの「お話なんだから、何をやったっていいじゃない、おもしろければ」と割り切れる人以外、「なんだよ、やたらに拳銃を出しやがって! アメリカじゃねえぞ」となるはずだ。

 あまたある突っ込みどころのなかで、ここでは電話のことだけを書いておきたい。ドラマの主人公は医者で、妻と家政婦の殺したという無実の罪で死刑を言い渡され、服役3年後に移送中に事件が起こり、脱走した。問題は次のシーンだ。裁判のときにかかわった弁護士事務所に、他人ケータイから電話をするのだ。これがおかしいことは、私でもわかる。4年前の裁判でかかわった弁護士の電話番号を暗記していたのか? ほかの人に電話をするシーンもあるのだが、電話番号を暗記していたというのか。

 このシーンで思い出したのが、2011年の市原隼人主演のTBSドラマ「ランナウェイ」だ。無実の罪(!)で刑務所に入っている男が脱獄する。刑務所近くの民家に忍び込み、服やカネを探す。うまい具合に住民は留守で、しかも、なんという偶然か、テーブルにケータイが置いてあり、まことに幸運にも、使える状態にある。男はすぐさま電話をかける。ここだけでなく、公衆電話などからも、電話するシーンがある。

 「ランナウェイ」というドラマの電話のシーンはおかしいという話は、このアジア雑語林(2011-11-06)ですでに書いた。あれから9年たって、また同じことを書くようになるとは、ドラマ制作者の頭脳がどうなっているのか。

 ケータイ以前の時代なら、友人や家族や仕事関係の電話番号をいくつも暗記している人はいくらでもいたが、今の時代に、スマホをなくしたので、知らない人から電話を借りて友人に電話するなんてことができるか? 昔なら、電話番号を手帳に書いておくというのは常識だったが、今は手帳がスマホだろう。この2本の逃亡ドラマが、1980年代の設定なら、まだわかる。しかし、現代のドラマでは、それは無理だ。

 「逃亡者」に関しては、ハリソン・フォードの映画版も、それほどの出来ではなかった。傑作はなんといっても、連続テレビドラマ版だ。数年前だったか、再放送をやっていることに気がついて、1回分だけ見たが、やはり、うまい作りだ。逃亡者でありながら、病人やけが人に出会うと、医者の良心から逃亡を中断して手当てをしてしまう。逃亡者と医者という葛藤がある。出会った人に、自分が逃亡者だとわかってしまうかどうかというサスペンスがうまく作ってあった。テレビ朝日版ドラマは、時代の変化をうまく描き切れなかったのだが、その責任は、アクションドラマにしてしまったプロデューサーにある。役者が気の毒な作品だった。

 「偶然にも・・・」だけで構築されているドラマを、私は楽しめない。SFであれ、ファンタジーであれ、決められた設定の範囲内で動くから緊張が生まれるのだ。

 

1514話 思い出話と歴史 その5

 

 旧知の大学教授たちとパソコンの話をしていたら、こんな話を始めた。

 「最近の学生は、スマホでなんでも済ませるので、パソコンが使えない学生が多くなってね。だから、授業でレポートの話をするときは、スマホとプリンターの接続方法とそのコードといった講義を科目ごとに毎年何度もやらないといけないんだ」という。以前はそういう教習をしなかったので、教授のスマホにレポートが送られてきて、読むのに苦労したといっていた。

 「大学生がスマホを持つようになって、パソコンが使えなくなった」という話はほかでも何度も耳にしている。スマホで文章が作れるし、検索もできるのは確かだが、だからパソコンを使えない学生が増えたという説は、必ずしも正確ではないと思う。私の授業をとった学生は、スマホで書いてプリントアウトしたものもいただろうが、多くは自分のパソコンか大学で自由に使えるパソコンを使ったと思う。なぜなら、パソコンをある程度使えないと就職に不利だとわかっているからだ、パソコンの基礎くらいはすでに習得しているのだ。パソコンに詳しくない私が書くのも変だが、エクセルやパワーポイントくらいは新入社員の最低限の技能になっているのではないか。ゼミの発表でも、パワーポイントを使う学生もいる。

 ということは、パソコンを使える大学生と使えない大学生の違いは、親の経済力や学生自身の就職への姿勢が関係しているのではないか。多くの大学では、パソコンを自由に使えるだろうから、自分専用のパソコンはなくてもいい。だから、親の経済力は関係ないかもしれない。大学を卒業しても、フリーターのような仕事をしているなら、スマホだけでなんとかなる。いわゆる、ちゃんとした企業で、ちゃんとした仕事をするなら、パソコンくらいできるのは当たり前で、そのほかにどれだけの資格や技能を身に着けておくかが就職の勝負と考えている学生は、「スマホがあれば何とでもなる」とは思っていない。だから、教授が語る「大学生とパソコン」の話も、その教授がどういう学生がいる大学に所属しているのかということで、大いに変わってくるはずだ。学生個人の考え方にも大いに関係があり、卒業しても就職する気はないと決めていれば、パソコンの勉強などしないだろう。最近本を出した芸人のバービーは、「パソコンは使えないので、スマホで原稿を書いた」と言っていた。1984年生まれ、東洋大学印度哲学科卒業のバービーは、パソコンが使えないと困る職業にはつかないと決めていたのだろう。

 話は前回の社員とパソコンの話に戻る。新入社員にパソコンを教える時代が終わり、新入社員の誰でも文書作成くらいは簡単にできる時代に入り、そして今、ふたたび「新入社員が、パソコンを使えなくてさ」と会社員が嘆く時代になった。図表が作れないといったこと以前に、新入社員はキーボードが使えないというのだ、ローマ字もよくわからないらしい。

 な~るほど、そういうことか。

 私はパソコンを毎日使っているが、エクセルもパワーポイントも使えない。研究発表や授業でパワーポイントが使えた方がいいかもしれないと思ったことはあるが。「黒板でいいや」と思っているので、ついにパワーポイントに近づかなかった。ちなみに、最近の学校をご存じない方のために書いておくと、ゼミをやる小さな教室以外は、黒板常備です。教師は指を白くしてチョークをつかんでいます。講師をやる前は、とっくにホワイトボードに変わっているものだと思っていたもので、ちょっと余談を。

 私は、スマホはまだ持っていない。このブログで度々書いてきたように、現在の旅行にはスマホは欠かせないことを痛感しているので、「次の旅の前には買っておこう」と昨年秋からYモバイルだのUQだのと、いろいろ情報を集めてみたのだが、旅行そのものが中止状態になってしまったので、スマホはまだ手にしていない。いつになったら手にするのだろうか。早くスマホを買いたいとはまったく思わないが、はやく旅がしたい。

 今、毎日触っているパソコンを、まがりなりにも使えるようになり、ブログを書けるようになれたのは、アジア文庫の大野さんと旅行人の「天下のクラマエ師」のご両人のおかげだ。パソコン購入と同時に教科書も買ったのだが、読むのがめんどうくさくて(よくわからなくて、と言ってもいい)、おろおろして不具合を起こすと、「こうすると、簡単ですよ」と教えてくれたのがご両人だ。

 私が書いたことは底が浅いので、さらに知りたい人のために、パソコンが使えない若者毎日新聞という資料があるが、私の考えとは異なる。

 

1513話 思い出話と歴史 その4

 

 私に社交性はないし、宴会などにはほとんど縁がないのだが、それでも私の知らない世界を生きてきた人たちとたまたま雑談するような機会はある。年齢が違い、業種が違っても、私には「知りたがり」という好奇心はあるので、いろいろな話を聞くのが楽しい。

 50代のころだったが、私とほぼ同世代のサラリーマンたちと雑談することがあった。たまたま私がパソコンを始めたころだったので、話題がパソコンになった。これなら業種が違っても共通した話題になる。それで気がついたのだが、私とほぼ同世代のサラリーマンたちは、仕事でパソコンを使わなければならなくなった当時最高齢の世代らしいということだ。

 つまり、こういうことだ。大卒なら、1970年代後半に就職したサラリーマンが入社当初に使っていた事務機器は、プッシュボタンになった電話と電卓とコピー機くらいだろう。ワープロ専用機もファックスもまだない。ポケベルは営業が始まったばかりだ。その当時でも、大きな会社にはコンピューターはあった。1970年代の末、私は朝日新聞社で編集の手伝いのようなことをしていたのだが、社内には「電算室」というものがあり、「コンピューターは熱に弱いから、冷房がガンガンに効いているんだよ」という社員の話は覚えているが、もちろん私ごときがその部屋に入ることはなかった。コンピューターはテレックス同様、特別は技術者が扱っているものだったのである。

 職場にパソコンが姿を見せる時期は、業種や会社の規模によっても大きく違うのだが、だいたい1990年代だろう。普通の文系社員が、仕事でパソコンを使わなければいけなくなったのだ。40代なかば以下の社員は、必須である。それ以上の年代の管理職は、「ちょっと、キミ、報告書を作っておいてくれ」と指示しておいたり、「明日の昼飯おごるから、ちょっと頼む」などといって、パソコンに触らずにサラリーマン生活を過ごし、やがて定年を迎えた。40代なかば以下の社員は、パソコンの参考書を買ってきて独習するか、休日や夜間にパソコン教室に通って、なんとか使えるようになったそうだ。

 「それなのに、新入社員が楽々とパソコンを使いこなしていると、『コノヤロー!』という気分だったんじゃないですか?」と聞くと、「とんでもない」という。

 「あの時代、パソコンは大学生が買えるような値段じゃありませんよ。だから、コンピューターのことなど何も知らない新入社員に、我々が教えてあげたんです」

 そういえば、思い出した。天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんが旅行雑誌「遊星通信」を創刊するのは1988年だが、直接のきっかけはパソコンさえあれば自分で雑誌が編集できる時代になったとわかったからだ。今や旅行人伝説になった話だが、そのときのパソコンは妻が持っていたホンダ車を売っぱらって購入したのである。

 パソコンの値段といっても、そのスペックによって大きく変わるのだが、その「平均価格」を表した資料がある。この資料やほかの資料を見ても、1990年から始まっている。旅行人の1988年というのは先史時代ということだ。伊集院光は、秋葉原に行って部品を買い集めてパソコンを自作していたらしい。

 ネットの資料によれば、1990年代前半のパソコン平均価格は30万円弱というところらしい。1975年入社組の20年後の1995年は、Windows95の発売である。1998年iMacが発売され、女性の人気を集める。17万8000円という価格は、会社員がボーナスで買える金額だが、大学生がアルバイトをして買うには、まだ高い。

 2000年代に入れば、大学生がパソコンで文章を綴れるのは当たり前だが、それ以上の能力は個人差があるという状態らしい。私は2000年代に入ってすぐに大学の講師になった。毎年学生のリポートを読んできた経験で言えば、リポートの書式条件を「2000字程度、縦書き横書き、手書き、ワープロ自由」としたが、手書きはほんの数本あっただけだ。毎年200本ほどレポートがあったから、十数年間に全部で3000本ほどのレポートを受け取ったことになるが、手書きは数本だけだったということだ。ところが・・・という話を次回。

 

1512話 思い出話と歴史 その3

 

 終戦後、日本は連合国の支配下にあったが、1951年、日本はアメリカと「サンフランシスコ平和条約」( Treaty of Peace with Japan)を結び(発効52年)、晴れて独立国となり、国際社会に復帰した。IMF(国際通貨機構)に加盟したのも1951年だが、その当時の日本の経済はまだ復興の途上にあるということで、外国為替の制限が容認された。そういう国を第14条適用国という。1963年、IMFは「日本はもう発展途上国ではないのだから、加盟国として責務を果たす第8条適用国として一人前の国になるように」と勧告された。わかりやすく解説すると、国際収支の悪化を理由に為替制限してもいい第14条国から、制限してはいけない第8条国に移行しなさいという勧告だ。ということは、これからは日本円をドルに両替したいという国民の要求を、条件付きではあるが拒絶できない先進国となったということだ。第8条国への移行は1964年4月から実施された。こういういきさつで、通貨流通の自由化が、日本の海外旅行自由化につながったということだ。

 外貨への両替が誰でもできるようになったから、海外旅行を禁止する理由もなくなった。海外渡航1回につき500ドルという金額制限はついたが、これで制度上は誰でも外国に行けるようになった。これが海外旅行自由化の流れである。私が知る限り、拙著『異国憧憬』以前に、経済書の短い記述以外でこういう歴史を書いた人を知らない。旅行研究者が経済史をきちんと調べないからであり、「どうしてなんだろう」という好奇心がないからだ。ネットで調べると、旅行研究の本家本元JTB総合研究所のスタッフが「海外渡航自由化50周年に向けて」という論文を書いているが、「OECDの勧告」を受けて海外旅行が自由化されたと書いているが、これはおかしい。日本がOECDに加盟したのは1964年4月だったから、加盟と同時にいきなり「勧告」を発して、それを受けて、同時に日本政府は海外旅行自由化したという説明は、どう考えてもおかしい。OECDは資本の自由化に関係しても、通貨の流通や海外旅行の自由化とは関係ないはずだ。

 はっきり言うが、観光学とか旅行の研究というのは、旅行でいかに稼ぐかという商売のためだけの学問だから、やたらにグラフが多い論文を読んでいるとがっかりするのだ。それはともかく、何事であれ調べるのであれば、その歴史をちゃんと押さえておかないといけないという教訓。

 ここで、1964年代の日本の経済力と為替のマジックという話をちょっとしておこう。海外旅行が自由化された1964年の外貨持ち出し制限が500ドルだったと知った現代の人が、「たった500ドルぽっち」と書いていた。500ドルはたったの5万円程度と思ったのだろうが、1ドル360円時代の500ドルは18万円である。1964年の日産自動車の新人工員の給料は1万5000円だ。ということは、給料12か月分だ。多くの日本人にとって「たった500ドル」ではない。

 その1964年、移民船でアメリカに渡ったのが植村直己だ。ほとんど無一文での到着なので、カリフォルニアの農園で不法就労した。最初は日給が6ドルだったが、仕事に慣れたひと月後には日給30ドルになっていた。30ドルは日本円で1万0800円だ。日給1万0800円なら、ひと月に25日働くと、27万円になる。当時の都知事の給料は30万円、総理大臣は40万円である。これが当時の日本の経済力であり、為替のマジックでもある。

 こういう事実を調べ、積み重ねていかないと、日本人の海外旅行史が立体的には見えてこない。歴史の立体化が必要なのだ。そのための資料として、旅行者の思い出話も必要なのである。

 

1511話 思い出話と歴史 その2

 

 過去を知ることは重要だ。過去を調べる行為に、老いも若さもない。

 経済に興味がない。経済書など読んだことがない。それなのに、戦後日本経済史関連書を読んでいたことがある。戦後日本人の海外旅行史を調べていた時だ。

 日本で海外旅行が自由化されたのは1964年4月だということは、ちょっとした戦後史年表に出てくるし、旅行史の本でももちろん出てくるのだが、「なぜ、この時に、どういういきさつで自由化されたのか」という疑問に答えてくれる資料は見つからなかった。「国民に海外旅行をさせてやろう」と、政府が考えたのか。同年の東京オリンピックと、何か関係があるのだろうか。どうやら、誰も調べてみようとは思わなかったらしい。JTBの資料や旅行業界専門誌「トラベル・ジャーナル」の刊行物を読んでも、私の疑問に答えてくれる資料は見つからなかった。

 日本政府の特別な許可がある者だけが渡航できた時代が終わり、旅行資金さえあれば誰でも自由に、どんな目的であれ渡航できるというのが海外旅行の自由化である。そういう自由化が、なぜ1964年だったのか。自由化というと、牛肉の輸入自由化とかオレンジの輸入自由化とか、経済問題に関係がありそうで、しかも対外圧力にも関係がありそうだというカンを頼りに、戦後経済史を読んでいったのである。

 政府が国民の海外旅行を制限していたのは、経済活動で稼いだ貴重な外貨を持ち出すのが海外旅行だからだ。外貨(具体的にはアメリカドル)は、石油や生産に必要な機械や薬品などあらゆる物を外国から買ったり、生産に必要な特許料の支払いなどに充てるのにも不足しているというのに、物見遊山の海外旅行などされてたまるかというのが日本政府の考えだ。

 観光で外貨を稼ごうという発想は、1912年創立のジャパン・ツーリスト・ビューロー(Japan Tourist Bureau、略称:JTB。現在のJTBはJapan Travel Bureau)あたりから始まる。旧称の方のJTBは、日本人相手の旅行会社ではなく、外国人を日本観光に誘う機関だった。1930年には鉄道省に国際観光局が設置され、愛知県の蒲郡ホテルなど国際観光ホテルができたが、観光立国の夢は戦争とともに消えた。戦後の日本政府は長らく外国人観光客で外貨を稼ぐという発想はなく、国土交通省観光庁ができたのは、2008年である。国家の収益は鉄鋼や造船など重厚長大企業が支えるもので、「旅館の客引きのような旅行業者」(政治家も官僚も経済界も、そういう意識で旅行業を見下していた)など取るに足らないと考えていたし、外国人が「フジヤマ、ゲイシャ」以外の日本に興味を持つなどと思えなかったのである。旅行者が魅力を感じるものは欧米にあるが日本にはないと、日本人自身が思っていたのだ・・という話をすると長くなるので、今回はここまでにするが、国際観光ホテルの話をすれば帝冠様式といった建築の話になるし、歴史を調べると興味深い話題がいくらでも出てくる。

 自由化以前に海外に行きたいと思う者は、自分の渡航が日本にとっていかに利益のあるものかを証明するさまざまな書類を添えて、申請書を提出する。その申請とは、外貨割り当てを求めるものだ。例えば、アメリカに行き、日本製品輸出の契約をしてくる。これで日本は儲かるというようなことを書いた申請書を委員会が検討して、許可が下りれば初めてパスポート取得を申請できる。「外貨を持ち出していい」という政府の許可を得ることが難しかったのだ。

 1990年代に入って初めて海外旅行をした人に、過去のこういう制度を説明していたら、「そんな面倒なことをしないで、日本円のまま持って行って、外国で両替すればいいじゃないですか」と言い出したので、「目が点」とか「開いた口が塞がらない」という経験をした。いや、若い世代の無知を笑ってはいけない。私の説明が足らなかったのだ。

 たとえ話だから正確さに欠けるが、1950年代はもちろん60年代に入っても、外国で日本円は自由に両替できなかったのだ。現在で言えば、ベトナムの通貨ドンやバングラデシュの通貨タカを日本国内の銀行に持ち込んで両替しようというようなものだ。1960年代に入ってさえ、日本円は国際的な信用がなかったのだから、日本円を持ち出してフランスで使おうとしても両替できないのだ。

 1966年、日本武道館ビートルズのコンサートが開催された。ビートルズ側とプロモーターとの契約では、出演料はアメリカドルで支払うとなっていた。日本円で受け取っても、日本以外では紙クズでしかないのだから、外貨の支払い条件は当然だ。プロモーターは出演料に見合う日本円は持っていたが、そんな巨額のアメリカドルはない。両替できないからだ。

 プロモーターは米軍基地周辺に赴き、闇ドルを集めたがまったく足りない。しかたなく、日本円が自由に両替できるほぼ唯一の場所である香港に飛んで、1ドル400円で両替した。日本国内なら1ドル360円の時代だ。それでもまだ足りないので、コンサート主催者の読売新聞社に泣きついた。マスコミは海外取材をしたり特派員を置いたりするので、外貨の制限が緩かったからだ。

 香港で1ドルが400円で取引きされていた時代、日本大使館に勤務していた警察官僚の佐々淳行は、その当時の思い出話を、『香港領事 香港マカオ暴動、サイゴンテト攻勢』で書いている。日本からやって来た官僚だったか国会議員だったかが、香港でかかる食費や買い物などの費用は大使館側に負担させ、支給された旅費の米ドルを1ドル400円で売り、日本円にして持ち帰ったという。1960年代の外貨事情というのはそういうものだったということが、思い出話でわかる。

海外旅行自由化へのいきさつは、次回に。

 

1510話 思い出話と歴史 その1

 

 若者から「若い」と思われたい中高年は、思い出話をしないらしい。若者が思い出話を苦手なのは当然で、語るような過去が自分にはほとんどないからだ。中高年はそういう若者に迎合して、過去を語らない。親が若かった頃のことをよく知っている子供はそれほどいないだろうし、就職した若者が、その会社や業界の過去に深い興味を持つということもあまりないような気がする。NHKの大河ドラマ好きとか歴史小説好きという人はいても、自分の家族3代くらいが生きてきたこの50年や100年の歴史に興味がある人は少ないのではないかという気がしている。

 韓国人に「日本人は歴史を知らない」と批判されることが多い。それは事実で、日韓の近現代史について大学生が討論しても、知識量では日本人は勝てない。韓国の愛国教育をきっちりと批判できるだけの歴史知識のある日本の大学生(もちろん歴史を専攻していない大学生たちの話だが)は、どれだけいるだろうか。

 このコラムで、「日本人の歴史認識」といった話を展開しようとしているのではなく、現代史はおもしろいという話をしたいのだ。私は歴史ファンではないから、正面切った歴史書を買うことはないが、必要に応じて歴史を学ぶ。

 例えば、『東南アジアの三輪車』を書くために、歴史の本を読み漁ってアジアの都市交通史年表を作った。日本人の戦後海外旅行史を追った『異国憧憬』を書くときには、旅行史と並行して、日本映画史や放送史や出版史や食文化史といった年表を作った。その当時導入したワープロ専用機は事項の入れ替えが自由なので、年表作りには便利だった。さまざまな資料を読んでいて気がついた事項はすぐさま年表に書き込めるのがいい。こうして、年表だけで単行本1冊分くらいの分量になったのだが、フロッピーディスクに保存してあったので、取り出せないまま処分してしまった。

 このように、何かを知りたいときは現代史の資料を読む。タイの雑話でもチェコの現代史でも同じことで、できるだけ多くの資料を集めて年表にしてから考える。だから私のパソコンには「バンコクのホテル創業年表」があるし、日本のタイ料理店年表は、デジタル化していないが、紙の資料のまま保管している。

 ある事柄を考えるには、推移が重要で、年表作りなどは基礎中の基礎だと思うのだが、どうやら私は変わり者らしい。一部の学者やノンフィクションライターや小説家は、書こうとするテーマの詳しい年表を作るらしいのだが、例えば私のように海外旅行年表を作って、日本人の海外旅行の推移を調べてみようと思う人は学者でもほとんどいないようだ。A4サイズの紙1枚にプリントアウトできる程度の資料があれば歴史に関しては充分らしい。

 私がさまざまな年表を作ることができたのは、細かいことも書き残してくれた人がいたからで、それは当時の出版物だけではなく、のちの時代に「思い出話」として書き残してくれた資料もある。

 初めて海外旅行をしてからそろそろ50年になる。だから、私が知らない時代の話や、知らない場所の話を書き残してくれた先達からのバトンを、私も次の世代に伝えていく「お年頃」になったようだ。ここ数十回分のアジア雑語林で、『食べ歩くインド』や『失われた旅を求めて』や「あれから8か月」で書いてきた裏テーマは、過去の話だ。意識して、昔話を書いた。そういう昔話を「おもしろい」と思う若者は1万人にひとりいるかどうかわからないが、記録に残しておけば、あとはどうにかなる。デジタル資料はいずれ消えるから、出版しておこうというのが、『失われた旅を求めて』を出した蔵前さんの考えだったのかもしれない。2000年頃のインドなんか、蔵前さんにとって「ほんの、ちょっと前」のことだろうが、その当時の思い出を語る人はもう40歳を超えているだろう。20年前のインドは、若者にとっては「昔のインド話」だろうが、還暦を超えた旅行者にとっては「ちょっと前のインド話」にすぎない。だから、40を過ぎた人も知らない「過去」を書き残すことで、旅行事情の流れを知っておいてほしいと、私は思うのである。インドの旅行事情に関しては、名著『つい昨日のインド 1968~1988』(渡辺建夫、木犀社、2004)のような本があるのだが、ほかの国についても出版されればいいのだが、と思っている。

 

1509話 あれから8か月 その11(最終回)

 

 帰りの車内で、『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019』(早瀬晋三、めこん)を読み、帰宅してもそのまま読み続けた。予想していた以上に、おもしろい。

 2年ごとに開催される東南アジアのスポーツ大会が始まったのは1959年だった。SEAP GAMES(South East Asian Peninsular Games)という名称で、第1回はバンコクで開催された。参加国は、タイ、ビルマラオスマラヤ連邦シンガポール南ベトナムの6か国だった。当時の東南アジア諸国の政治状況を説明すると、それだけで1万字ほどは必要になるから解説はしない。そもそも「東南アジアとは」という話をすれば、『1959年版 朝日年鑑』で「東南アジア」を調べると、インド、パキスタン、セイロンも含まれているのだから、話がややこしくなる。もともと独立国だったタイを除けば、どの国も独立後のゴタゴタを抱えている。タイにしても、軍の内乱から57年9月にクーデタがおきたのだが、その後再び軍内部の権力争いが続き、翌58年10月にまたしてもクーデタがおきている。そういう時代のスポーツ大会で、1977年にSEA GANES(South East Asian Games)と名を変えた。

 この本は、それぞれの大会に関して、当時の政治や経済状況の解説があり、続いて地元の英語新聞に載った大会の記事を紹介するという2部構成になっている。著者がスポーツの専門家ではないからだろうが、各競技の成績を詳しく紹介するよりも、雑多なエピソードを集めている。これがおもしろい。例えば、こういう話だ。

  • 第8回(1975年)のバンコク大会。会場で爆弾騒ぎがあった。対立する学生集団のケンカである。わかりやすく言えば、手製爆弾を使った「ビー・バップ・ハイスクール」のケンカである。タイでは、こういう抗争は珍しくない。
  • 第9回(1977年)クアラルンプール大会。開会式で使われたハトは、その後食料になったのではないかという噂を伝えている。サッカーのインドネシア・タイ戦は大乱闘になって中断。会場で「乱闘、暴動」といった報道がほかの大会でもある。大会に対する不満もあるだろうが、政府への不満がこういう形で現れたような気もする。
  • 第11回(1981年)のマニラ大会。フィリピンはアメリカの影響を強く受けているので、サッカーに関する知識がなく、会場となった大学の運動場には照明もゴールポストもなかった。
  • 選手をトラックで輸送するとか、選手団が到着しても、午後までチェックインさせないとか、開催国の不手際は数知れず、それに対する不満もあったが。それほど大ごとにならなかったのは、「お互い様」という配慮があったからだ。開催国は移っていくから、運営に文句を言えば、「次は我が身」となって責められることになる。だから、「まあ、まあ」と我慢してきた。そういうあいまいな、なあなあのなれ合い運営に口をはさんできたのが、外国人コーチや欧米で指導を受けてきた選手たちだった。いままでのままの大会でいいのか、それともオリンピックのような国際水準の大会運営を目指すのかという問題は、結局「このままでいい」ということになったらしい。 このあたりのいきさつを、早瀬さんはマラソンの円谷と君原を例に話を進める。SEAゲームをオリンピックのようにするということは、「死ぬ気で頑張る!」と言い、自分を追い詰め、ついには自らの命を落とした円谷である。このままでいいというのは、「死ぬ気で頑張らなくてもいいよ」という君原なのだという。練習と仕事のバランスをとればいい。練習だけに専念できる環境にないのだから、仕事の合間に練習していればいい。子供の面倒をみてくれる人がいないなら、試合中に子供のおしめを代えてもいい。そのくらいの余裕があるのが、「我々のスポーツ大会だ」。そう思っているという空気を、著者は新聞記事などから集めている。東南アジアのスポーツ大会を、「だらしない運営だ。日本人なら、すべてうまくやるのに」と読むのではなく、問題の多い内政と外交だったけど、大会の運営はこうやってなんとかやってきましたよという喜びの報告なのである。

 もうずっと前のことだが、クーデタで権力を掌握したタイの将校が、マスコミの取材を受けた。秩序の回復や汚職の撲滅などをこれからの政策方針に挙げたので、記者から「それでは、シンガポールのような国にしたいということですか?」と質問された。

 「とんでもない! 規則に縛られるのは息苦しい」と答えた。そんな新聞記事を思い出した。

 人間の歴史を描いたこういう本を、「おもしろい!」とわかる研究者が少しでも増えてくれればいいなと、思う。

 4000円もする本だから、買って読む人は少ないだろうが、図書館で探して、もしなかったら、購入希望を出して読んでみるといい。