1669話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その17

 続1970年

 

 私が作った旅行史年表の「1970年」の項に、「パリ三越開店」とあり、今回それに付け加えて、「ストアーズレポート編集長椎名誠海外初取材にして、初の外国体験」と加筆した。しかし、気になることがあった。椎名誠の初めての外国体験に関して、『屋上の黄色いテント』(椎名誠、柏艪舎発行、星雲社発売、2010)と『日焼け読書の旅カバン』(椎名誠本の雑誌社、2001)をヒントに、アジア雑語林612話(2014-07-25)を書いた。自分が書いた文章を再読すれば、「1970年開店」と書いた私の年表は間違いだという疑いがあり、再確認をすると三越の資料でもパリ三越開店は1971年8月15日だったとわかった。年表を訂正して、「誤記を見つけて、よかった、よかった」と喜んでいたのだが、それから先が大変なことになった。

 アジア雑語林612話を再読すると、1ドル360円最後の時にフランスに行った若きサラリーマンの財布を考察している。旅費は三越持ちだが、そのほかの費用は限りなく自費のようで、手取り3万円ほどの若いサラリーマンにとって、360円のドルは高かっただろうなと同情する。

 椎名誠の初めての外国体験をもっと知りたくて、『すっぽんの首』(椎名誠、文春文庫、2003)を取り寄せた。私は細部をきちんと書いておきたいタチだから、同時に誤りも多くなる。事実関係をあいまいなまま書いておけば、間違う危険が少ないのだが、できるかぎりはっきりさせたいという損な性分だ。

 この本の、「五万トンの紙吹雪」と「オペラ座通りの怪人」の2本が三越と流通業界誌「月刊ストアーズレポート」編集長椎名誠の関係を描いている。「五万トンの紙吹雪」は、日本武道館で開催された三越創業300年記念式典がいかにまがまがしくド派手だったかという話を書いている。バブルの時代はまだ遠い未来だったが、大金をかけたその式典がいつだったかは書いてない。

 「そのすべてにわたって型破りで巨大な式典はその年の十一月十三日に行なわれた」とあるが、「その年」が何年なのかは、書いてない。そこで、ネットで調べると、古本屋にその式典関連資料が販売リストに載っていた。

 三越創業300年記念式典関連冊子

 この資料によれば、式典は「昭和47年11月13日」とあるから、1972年だとわかる。

さて次は「オペラ座通りの怪人」という話で、内容は武道館の式典の翌年だとわかる。

三越岡田茂社長は前の年の日本武道館で創業三百年記念式典を成功させ、ますます鼻息を荒くし、次は海外にいくつかの拠点をつくるときだ、と景気のいい進軍ラッパをふきならしていた」

 その海外拠点の第一歩としてパリ店をつくることにした。業界誌編集長は、三越の費用持ちで初めての外国旅行に出かけたのである・・・が、あれ? おかしいぞ。

 パリ三越開店は1971年8月15日のはずだ。ウィキペディアだけでなく、三越のホームページでも確認した。創業300年式典は翌1972年だったが、上の文章は、その翌年、つまり73年にパリ三越が開店したことになる。

 ややこしいので、もう一度復習する。

 三越のホームページやウィキペディアでは、パリ三越開店は1971年8月

記念資料から、三越創業300年記念式典は、1972年11月だとわかる。

 しかし、椎名は記念式典の翌年にパリ三越が開店と書き、パリに行き、オープニングセレモニーなどを取材し、その成果を1冊にまとめたのが、「パリ三越新店舗開店、フランス三越ジャパンセンター開設記念グラフ」(1973年6月25日発行)となっている。これが1971年の間違いだとは思えない。パリ三越開店が1971年だと思っていたから、上に紹介したアジア雑語林612話が、とんでもない間違いだとわかった。大恥をかく赤面ものだ。私が何かの資料で読んだ「1970年パリ三越開店」説が誤りというのはもちろん、さまざまな資料に出てくる「1971年開店」説はどうなんだ。「パリ三越準備室開設」とか、「パイロット店オープン」といったものが「1971年開店」の意味だろうか。いまのところ、まったくわからん。

 少しは関係がありそうな話を書いておく。1990年代のなかごろだったか、バンコク西武百貨店が進出するという噂が流れた。テレビ東京の経済ニュースでその準備のもようが流れた・・というのは確かな記憶ではないが、スクムビット通りにコンビニ店舗くらいの広さの無印良品の店ができた。私は実際に店内に入っているから、間違いない。しかし、西武進出の話は流れ、出店することはなかった。タイにヤオハンが進出していた時代だ。

 まったくの想像だが、パリ三越の場合、ビルの一角を借りた小さな店が1971年に仮オープンし、本格的な店舗をグランドオープニングという形で、1973年にパレード付きの大々的なセレモニーをやったのかもしれないが、73年の堂々ではあるが滑稽なオープニング式典(『すっぽんの首』参照)のことは、恥ずかしいのか三越のホームページには出てこない。

 

1668話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その16

 1970年

 

 日本人の海外旅行年表というのを作ってある。元はワープロ専用機で作ったもので、単行本1冊分くらいの量があった。その後、パソコンのワードに打ち変えて縮小版にした。

 その1970年の項を見ていて、「おや?」と思った。原稿を書いた私がすっかり忘れていることが書いてある。

 「1970年に日本ユースホステル協会の会員数が、60万人でピークに」と書いてある。念のために調査をすると、「1970年」のことではなく「1970年代」の出来事だとわかる。誤記だった。会員数がピークになったのが何年のことか調べがつかないが、宿泊者数のピークは1973年だった。雑誌「anan」の創刊が1970年で、のちに「アンノン族」と呼ばれる若い女性の旅行者が出現し、旅行者の全体数も増えたのだが、増えた人たちはユースホステルではなく民宿やおしゃれなペンションに泊まったのだろう。しかし、時代はビジネスホテルが各地にできる前だから、女のひとり旅は宿泊を断られないユースホステルが無難だったかもしれない。

 1970年は大阪万博の年で、海外旅行者数は減るだろうと予測されたが、前年の3割増という出国者数だった。万博のために整備した国鉄の体制を、万博終了後も維持しようと考えて生まれた国内旅行のキャンペーンが「ディスカバー・ジャパン」で、これも1970年秋から始まる。国内外ともに、旅行ブームが始まっていた。北海道には、横長リュック(登山家は「キスリング」と呼んだ)を背負った「カニ族」と呼ばれる若者がいた。オートバイでツーリングを楽しむ若者が多くなるのも1970年代で、ライダー用の宿がいくつかできた。

 1970年の旅行に関連する出来事を少し書き出してみる。

・大阪で万国博覧会開催(3~9月)

・外貨持ち出し限度額が700ドルから1000ドルに。

日本航空ボーイング747(通称ジャンボ)が、ホノルル線に初就航。

日本航空の「よど号」が赤軍派にハイジャックされて北朝鮮へ。

羽田空港に、国際線用ターミナル完成。

国鉄が1社提供の番組「遠くに行きたい」(読売テレビ)放送開始。

・下関と韓国の釜山を結ぶ関釜フェリーが戦後初めて就航

・観光目的でも数次旅券が発給される。料金は一次旅券が3000円、数次が6000円。1973年に私はこの数次旅券を取った(大金を支払ったのだから、「買収した」と言いたい)。高校生だった1970年、アルバイトの時給がやっと100円を超えたころで、1日働いて1000円になるかどうかで、その後時給は上がったものの、6000円はとんでもない金額だ。帝国ホテルの宿泊料よりも高いのだ。『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社)によれば、1973年の帝国ホテルのシングルルームは4500円だ。

 1970年の旅行関連年表でもっとも注目したのは、「横浜・ナホトカ航路の利用者が1万7000人を超えて、ピークに。以後減っていく」という記述があるのだが。出典を書いていないので、確認のしようがない。私のミスなのだが、一行の記事にいちいち出典を書いていったら、年表のページが数倍になる。というわけで、この記事は「追い風参考記録」程度だろうが、このころの旅行事情を考えると、「そうかもしれない」とも思う。船の時代から飛行機の時代に変わる潮目だったのかもしれない。

 

 

1667話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その15

 地方在住者および県庁所在地から遠く離れた土地に住んでいる(気の毒な)人たち 4

 

 「地方在住者の海外旅行」というテーマを考えていて、前回パスポートの申請や受理がめんどくさいだろうという話を書いた。北海道や離島に住んでいる人は、パスポートの申請と受理の2回出かけないといけないのは苦労だが、それに加えて、昔は予防接種もあったなあと思い出した。

 海外旅行と予防接種といえば、現在ではアフリカなどに行く時に黄熱病の予防注射が必須で、あとは任意だ。今回のこのコラムは1960年代末から1970年代前半あたりの旅行事情を書いているので、私が体験した時代の予防接種の話をしてみよう。

 1973年、有楽町駅前の交通会館のなかで開業していた宮入内科で、コレラの予防接種を受けた。1回目のあと1週間後に2回目を打たないといけない。加えて、天然痘の予防接種も受けて、接種証明書をもらった。これが私やほかの日本人が知っているイエローカードだ。のちに、サッカーになぜイエローカードがあるのか不思議に思った。

 インターネットや手持ちの旅行資料で、予防接種の戦後日本史を調べたのだが、よくわからない。1974年に、「日本は、外国人の入国時にコレラの予防接種証明書を求めない」という記述を見つけたが、旅行ルートによっては日本人旅行者にコレライエローカードを求める国もあった。天然痘は1980年に絶滅宣言が出ているから、それ以後は天然痘イエローカードは不要になったことはわかる。

 1973年のイエローカードは当時のパスポートといっしょにあるはずだと思い探したが、見つからない。その後の時代のものは見つかったので、その内容を書き出してみよう。

 イエローカードというのは通称で、正式名は「予防接種国際証明書」という。

 1975年8月24日 ロンドンのBritish airways Medical Serviceというところで、コレラの予防接種を受けている。ヨーロッパからの帰路アジア経由にする予定だったので、接種を受けておいたのだ。

 1978年5月4日 香港でコレラの予防接種を受けているが、1回だけだ。そういえば、国によって1回と2回があったような気がする。

 1979年2月6日と13日に、有楽町宮入内科でコレラの予防接種を受けている。前年は香港で接種を受けたのは、宮入内科が高いからだ。保健所でやれば安いのだが、交通費や手間を考えると宮入内科に行くのが便利だった。香港経由の場合、イエローカードが求められない香港で接種を受けて、費用を節約した。

 1982年1月5日 香港のPort Health Officeで、黄熱病の予防注射を受けた。アフリカ旅行の準備である。これも、日本では高いから、香港で打った。1980年には、コレラ天然痘も接種しなくてよくなったが、黄熱病だけはアフリカに行くものには必要だった。以後、予防接種が必要な国に行っていないので、イエローカードは手元にない。

 ここで、余談。1970年代に旅行社の社員だった人の思い出話。営業活動が実り、海外社員旅行の契約を結んだのだが、社長をはじめ幹部社員が、「注射のために、2回も半日つぶすヒマはない。お前らが代わりに行け!」と旅行社の担当社員に言い、旅行社としてもそのツアーを売りたいから、「じゃ、いつものように」と旅行社社長が言い、特別日当の支給を受けて、「社員たちが保健所や宮入内科に行ったもんですよ」。代理接種である。

 都内の会社員でも面倒くさいのだから、北海道や沖縄や鹿児島などの離島の住人は、さぞかしうんざりしていただろう。

 そういえば、とまた思い出す。ドルへの両替も、近所の農協や信用金庫ではできないから、地方の小さな町や農村在住者は、県庁所在地などのしかるべき銀行に行かなければならなかった。私は有楽町の宮入内科に行った後、虎ノ門アメリカン・エキスプレスに行って、トラベラーズ・チェックを買ったが、地方在住者だと、そういうことは難しいな。外貨持ち出し制限があった1970年代前半は、空港で簡単に両替できる時代ではなかったのだ。

 旅行マスコミも他のマスコミ同様東京中心だから、東京から遠く離れた地に住んでいる人たちの海外旅行に想像力が及ばない。日本を出るまでが、すでに大事業だったのだ。

 鄙生活者に、幸あれと、反省をこめて。

 

 

1666話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その14

地方在住者および県庁所在地から遠く離れた土地に住んでいる(気の毒な)人たち 3

 

 「ビザは隣国で取れ」というのは原則だが、仲が悪い国同士だと簡単にはいかない。ケニアタンザニアのビザはなかなか取れなかった。ケニアタンザニアの関係史をきちんと話すと長くなるので、ここでは簡単に「両国は仲が悪かった」とだけ言っておこう。国境を閉じているわけではないが、ケニアからタンザニアに行くルートは、1982年当時次のようなものだった。

  • どこかでタンザニアのビザを取り、飛行機で入国する。1982年当時、ナイロビ・ダルエスサラム便があったかどうかは知らない。
  • 陸路の場合は、ケニアからウガンダ→ルワンジ→ブルンジタンザニアというルートなら、ルワンジかブルンジタンザニアのビザが簡単に取れるという情報を得ていたが、どれだけ正確かわからない。ブルンジまで来て、「入国不可」だと引き返すのがえらく面倒になる。
  • ケニアタンザニア大使館はないから、ケニア当局に問い合わせたら、こうしろと言われた。まず、タンザニアの警察に入国許可申請をする。許可が出たら、ケニア警察に行き、ケニアの出国許可をもらう。その書類のコピーをタンザニア法務省だったか外務省だったかに送ると、「幸運なら、もしかしてビザを送られてくるかもしれない」というもので、翻訳すれば「不可能」という意味だろう。
  • そこで、私はケニアの小島ラムから帆船に乗って、タンザニアのダルエスサラムに不法入国(ビザなし入国)したというわけだ。刑務所行きか、ワイロをたっぷりせがまれるかと覚悟したが、警官かイミグレーション職員かが、私の扱いがどうにも面倒になったようで、パスポートに「ひと月滞在可」のスタンプを押して、事務所から解放された。所要30分、出費ゼロ。

 さて、話を戻す。日本でビザを取る話だ。

 地方在住者は東京など大使館がある都市に行かなければならない。東京に大使館があるだけで他の都市に公使館も領事部もない国なら、大阪在住者でも上京しないといけない。すぐにその場で取れるということはほとんどないから、最低1泊2日が必要だ。ビザは午前申請、午後受け取りだと、前夜東京に泊まっている必要があり、飛行機が朝の便なら、もう1泊しないといけない。日本を出るまでにけっこうな交通費や滞在費を使ってしまう。数か国のビザを取るなら、うんざりするはずだ。

 ビザ申請は観光ビザ程度なら、本人が大使館に行かずに、旅行代理店に申請を依頼することもできる。1970年代の旅行代理店手数料はわからないが、2021年のJTB手数料を調べてみれば、インドのビザは1万6500円。ケニアは1万1000円、ネパールは1万2100円だ。しかし、同じJTBこの資料では、インドの観光ビザ取得にかかる代行手数料は2万7500円になっている。たぶん、これがビザ代金を含んだ料金なのだろうが、詳細はわからない。この料金でも、東京までの1泊2日の交通費や滞在費を考えれば安いという人もいるだろう。首都圏在住者でも、仕事を2日休まなければいけないという人には、旅行社を使ったほうがいいだろう。もちろん、到着の空港でビザを取るという現在の情報は、ここでは考慮していない。

 出発が早朝だと前夜ホテル泊だろう。帰国便が午後到着だと、当日の帰宅はもう無理という人も少なからずいるだろう。羽田から地方空港に飛ぶとなると、出費が痛い。インターネットで成田発の安い航空券が手に入ることはわかっていても、成田まで行かないといけないなら、関空や福岡から飛ぶかという選択をすることもあるだろう。北海道の自宅に帰るなんて大変だが、自宅が札幌から遠いとまた大変だ。沖縄の石垣島に帰るなら、那覇からまた大金がかかる。自宅と国際空港を結ぶ移動費を考えたら、国際線航空運賃よりも国内線の方が高かったというのは、珍しい例ではないだろう。

 地方在住者には、外国に行く以前に、航空機の日本発着時刻の問題がある。首都圏在住者でも、どこに住んでいるかによって、早朝出発便や深夜到着便を利用するなら、成田や羽田に行くまでが大変だろうなあという話だ。ごく短期の旅なら、自動車で空港に行き、駐車場に置きっぱなしにするという方法もある。誰かに車で送り迎えをしてもらうという方法もあるが、公共交通機関を使うという事なら、利用できる便は限られる。

 私は東京在住者ではないが、千葉在住者だから成田も羽田も電車で簡単に行くことができる。それでも電車利用だと、「羽田22時30分到着便」は使えない。安くヨーロッパに行く便があり、乗り換えも便利なのだが、羽田のベンチで夜を明かすのはいやで使っていない。羽田で1泊するか、深夜のタクシー料金を払う気なら、少々高い航空券を買った方がいい。

 

 

1665話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その13

地方在住者および県庁所在地から遠く離れた土地に住んでいる(気の毒な)人たち 2

 

 どこに住んでいようと、旅行情報が手に入り、航空券が手に入るようになったのは、インターネット時代に入ったここ10年か15年くらいだろうか。パソコンを使って、自宅で世界の航空券や船や鉄道の切符も手に入るようになった。航空券をインターネットで買うようになり、それまで存在していた「航空券」という印刷物の束はほとんど消えた。自宅でプリントアウトした紙か、スマホにある情報が航空券になった。スマホの情報をプリントアウトして空港でチェックインということもあるそうで、「プリントアウト料金」を徴収されたという旅行者の話は、スマホを持っていない私の理解力を超えている。

 ちょっと余談をする。その昔、雑誌「旅行人」の投稿に、「なぜか、東北人のバックパッカーが少ない」というのがあった。私も、旅先で東北人に出会ったことがなく、不思議に思っていたのだ。旅行の話を書いているライターで東北出身だと知っているのは、秋田出身の伊藤伸平氏くらいだ。一方、九州出身というと、天下のクラマエ師ほかいくらでもいる。バックパッカーの地域差というテーマはおもしろい。どこの出身でもいいが、東京や大阪や京都で過ごす機会がない人は、『地球の歩き方』以前は旅行情報の空白地域に住んでいるということだろう。

 インターネット時代になり、安い航空券は「カチャリ」のクリック一発でナイロビだろうがサンパウロだろうが、アメリカ各都市の周遊だろうが好きなように買えるようになったのだが、「あとが大変だろうなあ」と思うことがある。ビザの問題があるからだ。現在は「ビザなし入国」が可能な国が増えたが、1970年代だと、ごく短期の滞在以外、ビザを要求する国はいくらでもあった。タイは、出国券があれば「7日以内はビザなし滞在可」だから、ほんのちょっと長くいようと思ったら。ビザが必要だった。安い航空券が手に入っても、地方在住者はつらいのだ。

 1975年ごろ、インドもインドネシアも、いかなる目的であれ入国にはビザが必要だった。在日本インドネシア大使館に観光ビザ申請に必要な書類を問い合わせたら、「学生なら学校からの推薦状、勤め人なら勤め先からの推薦状が必要」だという。これは香港のビザ申請と同じだった。旅の知恵を多少付けた私は、シンガポールインドネシアのビザ申請をすれば、申請書に記入するだけで取れて、しかも安いということがわかった。「ビザは、なるべく近くの国で取れ」という原則を学んだ。しかし、マレーシアのビザをインドネシアで取ろうとしらた不可能で、マレーシアにビザなしで強硬入国したことがある。インドネシアとマレーシアの仲が非常に悪い時代だった。マレーシアは出国券があれば「ビザなし入国」ができるし必要ならビザもとれる。しかし私は、マレーシアから船で出国する予定で、その船の切符はマレーシアでしか買えない。だから、出国券を用意しての「ビザなし入国」ができない。ビザも取れない。そこでしかたなく強硬入国した結果、空港の事務室に連れていかれ、事情を聴取され、ペナンからタイのハジャイへの航空券を買わされて、入国。その足で街のマレーシア航空のオフィスに行って買ったばかりの航空券を払い戻しして、マドラス行の乗船券を買いに行った。そういうテクニックを知らないときは、できる限り日本でビザを取っておくことになるのだが、それもまた面倒だ。

 それからだいぶ後の話だが、ジャカルタから北上してスマトラ経由でマレーシアも行くという旅行を考えて、インドネシアのビザを持たずにジャカルタに着いた。「船でマレーシアに行く」という私の主張は認められず、ジャカルタシンガポールの航空券を買わされた。もちろん、入国後にキャンセルした。

 私の場合はなんとか入国できたが、最悪の場合は航空会社が費用を負担して強制送還される。そういうトラブルを回避するため、空港でのチェックインの時、帰国航空券やビザの有無を確認することがある。マドリッドからモロッコのラバトに飛ぼうとして、空港のチェックインカウンターで足止めされた。「モロッコのビザがないから搭乗できない」と職員が言った。「日本人はビザは要らないんですよ」というと、「スペイン人は必要なんですがねえ・・」と不満そうだった。パソコンでちょっと調べた後、チェックインできた。

 今、タンザニアに不法入国したことも思い出したが、その話は長くなるので、次回にする。

 

1664話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その12

 地方在住者および県庁所在地から遠く離れた土地に住んでいる(気の毒な)人たち 1

 

 1970年代、私は東京をふらふらしていた。何かおもしろそうなことはないかと探している若者がいる場所に出没し、すでに書いたようなミニコミやパンフレット類を手に入れ、実際に格安フライト会社に行ったり、「オデッセイ」のような雑誌編集部にも顔を出した。神田神保町を歩き回ってわかったのは、実用的なガイドは日本語出版物ではなさそうなので、銀座イエナ書店や日本橋丸善といった英語書籍を扱う本屋に行って資料を探した。トーマス・クックの鉄道時刻表などは見つけた。個人旅行者用の「旅行し方ガイド」のような本は見つかったが、役には立つとは思えなかった。1975年のヨーロッパ旅行でわかったのは、イギリスの若者が出していた”Overland”シリーズというものがあり、アジア編とアフリカ編があった。タイプ打ちした原稿をコピーしただけのもので、製本はしてなかった。ただの箇条書き原稿だった。そういう事情だったから、『アジアを歩く』(深井聰男、山と渓谷社、1974)は貴重本で、品切れになったあと、アテネなどヨーロッパでこの本のコピーが高額で売られていた。ヨーロッパにいても、旅行情報に渇望していたのだ。

 それで・・・と、ふと考える。

 あの時代、もし私が青森や鳥取や佐賀や、ほかのどこの県でもいいのだが、首都圏や京阪神以外の土地に住むまじめな勤労青年だったとして、「インドか、行きたいなあ」と思ったとする。で、どうすればいいのか。県内のどこに住んでいるかで、そのあとの行動が大きく異なる。県庁所在地かその周辺に住んでいれば、パスポート申請にはそれほど手間はかからないが、もし山村や離島でなくとも、県庁から遠い所に住んでいたら、パスポートを手に入れるだけでも大事業だ。パスポートの申請と受理のために、県の旅券施設までの長い旅をしなければいけなかった。旅券法が改正されて、県庁まで行かなくても市町村でもパスポート事務ができるようになるのは、2004年以降だろう。

 幸いにも県庁所在地に住んでいて、JTBなど大手の旅行代理店がすぐ近くにあったとする。しかし、できることは、旅行代理店に行ってツアーパンフレットをもらってくるくらいのことだ。旅行社のカウンターで、「アメリカに安く行きたいんですが・・・」言っても、自由時間が多いツアーを紹介されるくらいだろう。「ヨーロッパをヒッチハイクで旅したいんですが・・・」というと、幸運ならヨーロッパ片道シベリア鉄道の旅ツアーのパンフレットをくれるかもしれない。あっ、今思い出した。1975年に私は交通公社の、そのシベリア鉄道経由ヨーロッパ片道ツアーに参加したのだが、添乗員がつかない片道長共産国ツアーだからだと思うのだが、出発前に東京駅前の国鉄本社ビルの中にあった交通公社本社内会議室に参加者全員が集められ、旅行の全行程の説明が行なわれた。この会に参加できない地に住んでいたら、出発当日横浜港に行くことになるが、広い港をウロウロすることになるかもしれない。

 首都圏在住者でも、外国は遠かった。

 どこに住んでいようが、外国旅行の資料がある程度手に入るのは、1970年代末から出版が始まる『地球の歩き方』シリーズからだろう。このガイドブックがでるまで、パスポートとビザの違いや、パスポートやビザの取り方をていねいに説明しているガイドブックはほとんどなかった。ガイドブックはツアー客が持っていくもので、旅行手続きはすべて旅行社がやって手数料を稼ぐシステムになっていたからだ。

 航空券情報は、『地球の歩き方』巻末広告が頼りだっただろう。1984年創刊のツアーパンフレット雑誌といった感じの「AB-ROAD」(リクルート)で、ツアー情報は増えた。

 友人などの話から、格安航空券というものがあると知った人でも、電話で航空券のことを問い合わせるには、若者の旅行知識があまりに未熟だった。パソコンを見たこともないという人が、電話でパソコンを注文するようなものだ。格安航空券会社がある場所に住んでいないと、個人旅行の情報は集めにくい。「空港でのチェックイン」とか「外貨両替」というものが、具体的にどういうものかまったく知らない人が、「安い航空券が欲しい」と電話をかけてこられても、旅行社も困る。だから、HISをはじめとする格安航空券を扱う会社は、随時「旅行説明会」というようなものを開催していた。旅行社のカウンターで、インドの安宿情報や鉄道旅行の仕方を質問されると、時間がかかり商売にならない。その当時、格安航空券を扱っていた友人の話では、「10万円の航空券を売っても、利益は500円か1000円なのに、ひとりに1時間もカウンターを占領されたら、大損なんですよ」と言っていた。だから、HISなどがインド旅行説明会を開こうとしたら、怪しげな宗教の勧誘活動だと誤解されたという。そういう時代なのだ。

 

 

1663話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その11

 若大将の海外旅行

 

 加山雄三東宝映画「若大将」シリーズは、荒唐無稽な青春映画という印象を与えるかもしれない。スポーツ万能で後半は学業優秀という若者の話なのだが、海外旅行史の史実という点では、かなりのリアリズム映画なのである。現実味のある夢物語なのである。年表風に、若大将の海外旅行の話を書いてみよう。

 東宝映画の「若大将シリーズ」は1961年から71年までに制作された計17作(別作1)をさす。

 加山雄三演じるスポーツ万能の大学生田沼雄一、通称「若大将」が初めて外国に行くのは、第4作「ハワイの若大将」からだ。

 1963年第4作「ハワイの若大将」・・・資産家の息子石山新次郎(通称「青大将」、田中邦衛が演じる)がハワイ留学を口実にハワイで遊んでいるから、息子を日本に連れ帰ってくれと父親に依頼される。若大将がハワイに行く方法は描かれていないが、資産家の依頼なら「業務渡航」といった偽装は簡単だったはずだ。

 日本が海外旅行自由化する前年の作品で、パン・アメリカン航空が全面的に支援している。1963年に東宝はハワイで大々的にロケをして「ハワイの若大将」、「社長外遊記」、「ホノルル・東京・香港」の3本を作った。監督は違うが、スタッフはハワイに滞在し、3作の撮影をした。「若大将シリーズ」はパン・アメリカン航空とタイアップした海外観光映画でもある。

 1966年第7作「アルプスの若大将」・・・建築学部の学生である若大将の論文がヨーロッパで認められ、招待を受けてヨーロッパに行く。ロケ地はイタリア、スイス、オーストリア。タイアップ作品だから、パン・アメリカン航空のローマ支店も画面に出てくる。大学生は、招待されて、やっと外国に行くことがきた。

 1967年第9作「レッツゴー! 若大将」・・・大学のサッカー部員である若大将が香港に遠征する。まだ、自費では無理だがスポーツ遠征なら外国に行くことができた。  1968年のメキシコ・オリンピックで日本のサッカーチームが出場となったことを受けての企画。

 1967年第10作「南太平洋の若大将」・・・水産大学の学生である若大将は、練習船タヒチとハワイに航行。カネのない若者は、船員となって日本を出るというパターン。

 1968年第12作「リオの若大将」・・・理工学部の大学生である若大将は、教授の出張に付き添ってブラジルにいく。大学卒業後は、リオデジャネイロの造船所に就職予定。

東宝の社長と石川島播磨重工業の社長が友人ということで、タイアップしてリオの造船所訪問というストーリーになったようだ。

 1969年ニュージーランドの若大将」・・・若大将は大学を卒業して、自動車会社に就職している。ニュージーランドに赴任。会社のカネで、外国に行く。

 1970年第15作「ブラボー! 若大将」・・・商社のサラリーマンである若大将は、失恋の痛手をいやすため、会社を辞めてグアムに渡り、通訳になる。元同僚のOLもグアムに観光旅行に来る。ジャンボジェットの就航で団体運賃が安くなった時代だ。若大将シリーズ第15作目にして、やっと自費での海外渡航だ。それが、この当時の若者の現実だろう。そういうリアルさがこの映画にある。もうひとつの現実は、グアムをロケ地に決めた理由は、藤田観光が経営するグアムのホテルとタイアップするためだ。

 1981年第18作「帰ってきた若大将」・・・シリーズ特別編。サザンクロス諸島自治政府顧問になっていて、大統領の要請でニューヨークに行く。ニューヨーク・シティー・マラソンに出場。ハワイでもロケ。若大将シリーズを支えていた航空会社が、パン・アメリカン航空から日本航空に変わった。パン・アメリカン航空の太平洋路線は、1986年にユナイテッド航空に売却し、91年に破産。日本の映画や大相撲や、「兼高かおる世界の旅」(1990年終了)などのテレビ番組を支えたパンナムの臨終であった。ちなみに、このパン・アメリカン航空がいかにめちゃくちゃな会社であったかを知るには、『パン・アメリカン航空物語』(帆足孝治、イカロス出版、2010)や『消滅―空の帝国「パンナム」の興亡』(高橋文子、講談社、1996)がある。そして『パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス』(クリスティン・R・ヤノ、久美薫訳、原書房、2013)は民族やジェンダーで航空会社を考察した名著だ。『旅する翼』(高橋文子、ダイヤモンドビッグ社、2019)はまだ読んでいない。