1676話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その24

 戦後旅券抄史 2

 

 旅券発給申請書の話から始めよう。

 『実用世界旅行』(杉浦康・城厚司、山と渓谷社、1970)に、「一般旅券発給申請書」の表面(おもてめん)のコピーが載っている。これは、私が申請した書類とあまり変わっていない。

 パスポートは大別して、一般と公用にわかれ、公用に外交官用も入る。つまり、公用以外で出国する人が持つパスポートが「一般旅券」である。一般旅券には、1度しか使えないが、帰国するまで10年でも50年でも有効という一次旅券が普通で、業務渡航者などには特別に何度でも使える数次旅券が発給されていた。1970年に観光目的でも数次が取れるようになった。だから、1973年の私の申請書にも、旅券種類に「一次」、「数次」のどちらかを選ぶようになっていた。「数次」に〇をつけると、「その理由」という欄があり、いろいろ考えて、「将来も旅行をするから」と書いたが、その翌年にもそのまた翌年にも外国に行くとは思ってもいなかった。ただの、希望を書いただけだったが、「生涯最初で最後の海外旅行」とは考えなかったから数次旅券を申請したのだろう。

 1970年に誰でも数次旅券を取得することができるようになったが、個人旅行者でも一次旅券を取ったものが少なくなかったらしい。数次旅券の存在を知らなかったという理由もあるだろう。「生涯最初で最後の海外旅行だ」と考えていた人も多かったかもしれない。「数次の3000円は高いから」という理由で一次旅券を取ったという人に、旅先で実際に会ったことがある。旅がいつまで続くのかわからない、もしかすると日本にはもう帰らないかもしれないと思う旅行者にとって、「帰国するまで有効」という旅券は安上がりに思えたのだ。ただし、この旅券には大きな問題があった。申請時に渡航先を記入しないといけない。申請書の渡航先記入欄に「アメリカ」と書いたら、パスポートに「渡航国 アメリカ」と印字され、それ以外の国には行けない。アメリカに行ったついでにカナダやメキシコに行くということは許されないのだ。どうしてもアメリカ以外の国に行きたくなったら、日本大使館に行って、渡航国の追加を申請しないといけない。

 追加申請は面倒だし、カネもかかるのが嫌で、旅行社のタイプライターを借りて(タイプライターの時代ですよ!)、自分で渡航希望国名を書き足したという男に、1975年のスペインで出会った。

 「ほら、書体が違うでしょ」と、そのパスポートを見せた。アフリカの国名がいくつか太い書体で追加されていた。

 「一種の、偽造パスポートだな」というと、「そう、だから、スペインでパスポートが盗まれたことにして、新しいパスポートを作ろうかと思っているんですよ」

 そのあと、どうしたのかは知らない。再発行パスポートは数次に変更できたのだろうか。

 一次旅券所有者の不満を別の旅行者から聞いた。

 一次旅券は「帰国するまで有効」というものだから、入国書類の「パスポートの発行日」は記入できるが、「有効期限最終日」を書くことができない。

 「だから、その欄に”forever”と書いたら、イミグレの係官が「ふざけるな!」と怒るのよ。それで、一次旅券の説明をするわけだけど、『帰国するまで10年でも50年でも有効』という話が信じられないようで、まあ、めんどくさい」

 私は1973年に取った初めてのパスポート以降、いつも数次を取っているが、手元のパスポートを点検すると、初期のものには「この旅券は、発行の日から5年を経過したときに失効する」と日本語と英語で書いてある。明確に失効日が記入されているのは1992年発行のもので、「有効期間満了日 DATE OF EXPIRY」として、発行日から5年後の日付けが印字されている。

 

 

1675話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その23

 戦後旅券抄史 1

 

 パスポートの戦後史を知りたかった。

 この話を、1回読み切りのコラムにしようかとも考えたが、一次旅券も知らない人が多くなったから、この機会に長編を書いてみようと思う。

 パスポートの歴史を少し調べると、あまりに変化が激しく、「まあ、いいか」と思ってさぼっているうちに数十年もたってしまった。コロナ禍は、こういうややこしい事柄の研究にはもってこいのチャンスなので、やっと手をつけることにした。旅券の歴史を調べ始めたころは、まだインターネットの時代ではないから、数少ない資料を集めて読んだが、手掛かりはなかった。今回、ネットを利用して調べると、地方自治体の資料のなかに、県の旅券部が作った「旅券関連年表」がいくつも見つかった。例えば、福島県の「旅券発給の概要」のなかに「旅券関連年表」(24ページ)がある。

 さまざまな県に同じような年表があるということは、大本は外務省の資料なのだと思うが、その資料は探せなかった。

 参考までに、1964年の海外旅行自由化以前の戦後パスポート事情を書いておこう。

 すでに何度か書いているように、日本人の海外渡航が制限されていたのは外貨不足が原因だ。したがって、その時代に外国に行くということは、日本にとって有益な渡航であると証明しなければならない。外国に行きたいと思った者は、旅行社に依頼して、その渡航が日本にとっていかに有益であるかという書類を作成してもらう。自社製品の輸出契約のために渡航するとか、スポーツ大会などの出場で、国威発揚になるといった書類だ。留学のように、外国の政府や団体がその費用をすべて負担するという場合の手続きは楽だが、通常は渡航希望者はもっともらしい書類を作成しなければいけない。

 旅行社が作った書類は、毎週外務省のなかで開かれる海外渡航審査連絡会(外務・大蔵・通産各省、経済審議庁総理府科学技術行政競技会から参加)で審議され、うまくいけば渡航の許可が出る。この許可というのは外貨購入許可というもので、そのあと本籍地あるいは居住地の都道府県庁でパスポートの申請ができる。繰り返すが、外貨持ち出し許可が出て初めて、パスポートの申請ができるのだ。1956年の資料では、費用は1500円の印紙だった。当時、小学校教員の初任給は7800円だった。

 海外旅行自由化以後で言えば、外国に行きたいと思う者が真っ先にすることはパスポートを取ることだ。団体旅行参加者は旅行社が面倒をみてくれるが、個人旅行を考えている者には、実は、これが難しい。手続きが難しいのではなく、どういう手続きをすればいいのかという情報を得るのが難しかったのだ。簡単に言えば、こういうことだ。

 「地球の歩き方」シリーズは、個人旅行をしたい者のガイドのはずだが、手元の「タイ編」には、「パスポートの取り方」の説明がなかなかでてこない。手元にあるもっとも古い『地球の歩き方 タイ』1989年版はもちろん、90年代に入ってもビザの話はでてきても、「パスポート」という語さえ出てこない。1994~95年版には、「パスポートを取ろう」という短文はあるが、「必要な書類をそろえて、最寄りの旅券課にいこう」というだけの役立たずの内容だ。1999~2000年版で、やっと半ページのちゃんとした内容の記述がある。この年から編集方針が変わったのかどうかはわからない。1990年代後半か末からの変化かもしれない。

 1964年の海外旅行自由化以後に発行された各種ガイドブックを読むと、ツアー客用のガイドブックだからか、パスポート申請の方法が書いてない。「旅行社に聞け」という意味だろうか。パスポートの取得を旅行社に依頼しても、当人も同行しないといけない。旅行社がやってくれるのは、「写真2枚と戸籍抄本を用意してください」といい、後日旅券課に連れて行って、書類を渡し、「記入してください」というだけだ。申請は旅行社が代理でできるが、1週間後の受領は当人が旅券課に出向いてサインをしないといけない。代理はできない。現在JTBに依頼すると、5500円の手数料で書類に必要事項を記入して、代理申請をしてくれるらしい。

 『地球の歩き方』でさえ、パスポート申請の書類や手順を書かなかった理由がわからない。今ならインターネットで簡単にわかるが、それ以前の時代の話だ。

 今回、パスポートの歴史を書くために、『パスポートとビザの知識』(春田哲吉、有斐閣、1990年4刷)を買った。著者は執筆当時、外務省の旅券の専門家なのだが、私が今知りたいパスポートの変遷に関する記述は残念ながらない。ネット古書店では内容がわからずに注文するから、こういうことになる。

 次回から、具体的な話に入る。

 

 

1674話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その22

 『ヨーロッパ鉄道の旅』をめぐるあれこれ 4

 

 横浜から船で出てシベリア鉄道・モスクワそしてパリまでのツアー代金と、日本からパリ往復の格安航空券代金とそれほど変わらない値段だった1975年当時、それでも船を使った人の話だ。格安航空券の存在を知らなかった人の話は前回書いた。

 では、安い航空券の存在を知っていても、船で出国したのはどういう人だったのか。

  • 自転車で旅する人は、飛行機に自転車を積むと高額な追加料金を徴収されるので、船を使った。帰路は所持金などにより、自転車は売るか捨てるか、日本まで持ち帰るか決める。
  • 旅が1年以上続くとわかっている場合。航空券の使用期限は最長1年だから、長い旅になるとわかっているなら、往復航空券は無駄だ。片道航空券だと、シベリア鉄道経由の費用とあまり変わらなくなる。
  • ヨーロッパからインド経由など、できるだけ陸路で帰国したと思っているなら、往復航空券を買うのは無駄だ。

 上記のような場合でも、あえて往復航空券を買うという人もいた。1年以内に旅行資金が尽きたとか帰国したくなったというような場合に備えるという理由もある。往復航空券を持っていると、入国審査が楽になる場合がある。仕事が見つかったなど、旅が長くなったとする。ヨーロッパから日本への復路航空券が不要になった場合どうするのか。その裏技をロンドンで聞いた。

 ロンドンの安宿街アールズ・コートにあるスーパーマーケットの出入り口に、旅行者用の有料の掲示板・掲示板があった。メッセージを書き込んだ紙に、通常1週間後の日付けが入った店の判を押してもらい、料金を支払って掲示板に貼る。「ジェーン、オレはここにいるよ」という連絡や、「インドまで陸路で旅行予定。同行者求む」、「ルーム・シェア、女性限定。連絡を」といったメッセージの中に、「ニューヨークまでの航空券」とか「東京までの航空券売ります」というのもあった。

 旅行社の広告ではなく、旅行者の手書きメモだ。旅行者があまった復路の航空券を売ろうとしているのはわかるが、どうやって売るのだろうか。ロンドン生活が長い日本人と知り合ったので、私の疑問をたずねてみた。

 「この張り紙で、東京までの航空券を買いたいという人が現れたとする。希望する日時を聞いて、航空会社でその便の予約を入れる。出発当日、いっしょに空港に行き、売り主が買い手の荷物とともにチェックインをする。そのあと、搭乗券を買い手に渡す。航空券代金をいつ支払うかは、双方で話し合って決める。当時は、搭乗券に名前は入っていないし、ましてやバーコードで管理するという時代ではないからできたのだが、ハイジャック事件防止策のため、1975年のころには、この航空券不正販売はかなり危ない方法だったようだ。

 最期に私の話をしよう。1975年にシベリア鉄道経由でヨーロッパに行った。それがもはや安い移動手段ではないことはわかっていたが、シベリア鉄道ルートを選んだ。その理由はーー、

 1974年に引き続き75年も横浜港から出国したかった。横浜そのものにたいした意味はなく、ほかの港でもいいのだが、できることなら、空港から当たり前に出国する旅ではない方がおもしろいと思った。「船で日本を出る」という行為は、もはや消えゆくものだという認識があったから、船旅を選択した。だから、日本出国の日を船の出航日に合わせていた。

  • シベリア鉄道の旅はおもしろそうだと思ったが、ハバロフスクから飛行機でモスクワに飛んだ。変わらない車窓風景に退屈するという話を経験者から聞いていたからかもしれない。今なら、全線鉄道で行く。
  • できることなら、帰路が決まっている旅はしたくなかった。1982~83年のアフリカの旅まで、片道切符で日本を出ることが多かった。安上がりな方法ではないことはわかっていたが、貧乏なくせに、旅に「安く」よりも「おもしろく」を選んだからだ。

 ナホトカ経由のシベリア鉄道の旅は、1992年、ソビエト連邦崩壊とともに廃止された。同じ1992年に、それまで外国人は立ち入り禁止だったウラジオストクが開放されたことに伴い、富山県高岡市の伏木富山港とウラジオストク港を結ぶルートでシベリア鉄道の旅は継続された。その時代のシベリア鉄道旅を描いたのが『シベリア鉄道9300キロ』(蔵前仁一、旅行人、2008)だ。

 おまけ話。つい昨日、書店で『るるぶウラジオストク』(2020)を見つけた。そういう時代なんですね。

 

若者の海外旅行史をテーマにしている今回のコラムの原稿をこのまま隔日で更新すると、来年1月にずれ込んでしまうので、キリよく年内で終わらせるために、これから毎日更新することにしました。お忙しい方は年が明けてからゆっくり読んでください。

 

 

 

1673話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その21

 『ヨーロッパ鉄道の旅』をめぐるあれこれ 3

 

 林芙美子シベリア鉄道に乗った1930年代、ヨーロッパをめざす鉄道の旅は船旅よりも安くて早かったという話はすでに書いた。それでは、ナホトカ航路が始まった戦後はどうだったのか知りたくなった。

 1963年発行の『世界旅行あなたの番』(蜷川譲、二見書房)で調べる。当時、シベリア鉄道を使った旅は、横浜からヘルシンキまで、最低料金で8万1864円だった。一方、船旅はどうか。フランス郵船のもっとも安いクラス(4人部屋)だと、横浜からマルセイユまで8万円だと書いてあるが、『若い人の海外旅行』(白陵社、1970)には「最低クラスだと6万6000円で行けた」と書いてある。1969年9月にフランス郵船の東洋航路は廃止され、安い船便は貨客船しかなくなった。それ以後は、定期便を利用するなら、横浜からソビエト船に乗ってシベリア鉄道経由というのが、日本人がヨーロッパに行くもっとも安い交通手段になった。

 シベリア鉄道経由と言っても、おもに2コースある。ナホトカからモスクワまで鉄道を使うコースと、ナホトカから夜行列車でハバロフスクに行き、そこから飛行機でモスクワに飛ぶコースがある。全区間鉄道を使うと7日以上かかり、その間の食費を考えると、モスクワまで飛行機を利用した場合と旅費総額はほとんど変わらない。 

 漫画家一行が旅をした1972年の料金はわからない。1969年の料金は、前回紹介したように。ヘルシンキまで9万4000円、パリまでは11万7000円だ。私の手元に、1975年の旅行パンフレットがある。日ソ旅行社の料金は、旅行時期により11万5000円から12万5000円だ。LOOK(JTB)のパンフレットでは、パリやロンドン、ローマまでの料金で、だいたい15万円だ。日ソ旅行社もLOOKも、交通費や食費などすべて含んだツアー料金だ。ヘルシンキまで安く行って、すぐに仕事を探すか、ユーレイルパスで鉄道旅行をするか、ヒッチハイクをするか。目的地がパリなら、LOOKが便利かなどと旅行社で相談しつつ旅行プランを考えたのだろう。

 さて、ここで、1661話で紹介した1975年の格安航空券相場をまた見てほしい。

 「パリ 片道12万0000円 往復17万7000円」とか、「ヨーロッパ各都市往復21万5000円」とか、「ヨーロッパ往復18万円」といった数字が見える。1972年の事情は分からないが、1975年の時点では、明らかに飛行機の方が安い時代を迎えていることがわかる。フランス郵船が運航していた1969年9月までは船の方が安く、その後はシベリア鉄道経由がもっとも安くなり、1975年にはもう飛行機の方が安くなっている。シベリア鉄道を使ったLOOKのパリまでの片道団体旅行が15万円、1年オープンの格安航空券で行くヨーロッパ便の往復が17万とか18万といった料金だ。休暇の短い勤め人やヨーロッパだけが目的という人なら、飛行機を利用したほうが早くて安い。

 ジャンボジェット機就航にともない、1970年から航空運賃の大幅な割引が行なわれ、団体料金で個人にバラ売りするようになったから、もしかすると1972年の時点でも飛行機の方が安かったかもしれない。

 それでもシベリア鉄道を使う人がいたのは、まず第1に、格安航空券の存在を知らなかった人がいくらでもいたことだ。交通公社や近畿日本ツーリストなど、街角の旅行代理店に行って、「パリまで、安い切符ください」と言っても、「あいにく、扱っておりません」と断られたはずだ。1970年代の格安航空券会社は、あたかも「いけないもの」を扱っているかのように、目立たないところで営業していた。資金がないからそうなるのだが、そんなうさん臭い会社に大金を支払うのは怖いというのが、普通の感覚だろう。そして、「1662話 地方出身者」で書いたように、首都圏や京阪神の海外旅行の裏世界に足を踏み入れていないと、ヨーロッパ往復20万円以下という切符は手に入らないし、誰かの伝手で、たとえ手に入っても、空港でのチェックインとかトランスファーとかトランジット、あるいはリコンファームと言った約束事がわからないと混乱するだろう。

 この話は長くなりそうなので、次回に続く。

 

 

1672話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その20

 『ヨーロッパ鉄道の旅』をめぐるあれこれ 2

 

 前回旅行ガイドの話を書くなかで、”International Youth Hostel Handbook”の名を出した。国際ユースホステル協会が発行している冊子だ。画像検索すると立派な本の体裁だが、私が東京有楽町のそごうの中にあったユースホステル窓口で買ったのは、A6版のノートのような小さく薄い冊子だった。「欧州・南北アメリカ編」と「アジア・アフリカ編」に分冊されていたか、1冊にまとめられていたかの記憶はない。詳しいことは忘れたが、ナホトカ経由でヨーロッパに行った1975年の旅で唯一持っていたガイドがその冊子だった。別冊で世界地図があり、そこにユースホステルのマークがその所在国についていたと思う。本文に、そのユースホステルの場所や交通案内、小さな地図がついていた。

 話はまたまた横道に入りこむが、1975年の私のヨーロッパ旅行の話を少ししよう。

 早朝のパリ郊外で、路上に立った。オランダ方面にヒッチハイクで行く計画だ。その日のヒッチハイクのことはよく覚えていない。自動車のことも乗せてくれた運転手のことも覚えていないが、はっきりと覚えているのは、夕方近くになってもフランスを抜けられなかったことだ。小さな街で車から降ろされ、今日はここまでと悟った。バッグからユースホステルガイドを取り出して、その街のページを出すと、うまい具合にユースホステルがある。畑の向こうの丘に、その建物がある。

 田舎道を歩いていると、横長のリュック「キスリング」を背負って私の前を歩いている男が見えた。リュックに日の丸が縫いつけてある。昔の旅行記などに載っている写真を見ると、リュックに日の丸をつけて、「日本代表」を気取った人たちの姿があった。個人旅行なのに、探検隊や登山隊のような姿だ。1973,74年の旅で何人かが日の丸をつけているのは見ているが、考えてみれば75年のフランス北部で見たこの男が「日の丸旅行者」の最後だった。もはや「日本男児ここにあり」というような決死の冒険旅行気取りなど時代に合わないと気がついたのだろう。

 ユースホステルの近くまで来ると、先ほどまで私の前を歩いていた男が私の方に向かって歩いてきた。満室か?

 どちらともなく、「こんにちは」と声をかけた。1970年代から80年代なら、「日本人らしき旅行者」のほとんどは、アジア系アメリカ人などを除けば、まず日本人旅行者だった。

 「満室でした」と彼が言った。やはり、そうか。

 きびすを返して、私も彼と並んで街の方に歩き出した。

「街で、ホテルの看板を見ました。値段はわかりませんが、行ってみますか? 」宿代を割り勘にすれば、痛手は少ないのだが、問題はその宿代だ。

 石積みの小さな2階建ての宿だったと思う。部屋代を聞いたら、ふたりで折半すれば払える金額で、それを拒否したら野宿になるので、「ここにしましょうか?」と合意して、宿代を先払いして、2階に上がった。

 部屋のドアを開けて、ふたりは絶句した。絶句だから、ふたりとも声が出ないが、もし声を出すなら、「あ~あっ、これか・・・」だろう。部屋の中央にダブルベッドがあり、それ以外なにもない。フランスで、生まれて初めて男と同じベッドで寝ることになったのかという緊張感はお互いさまで、ふたりとも、それぞれのベッドの端ぎりぎりのところで寝た。落ちないように心がけることに懸命で、安眠はできなかったのか、あるいは、疲れ切っていて、田舎町ではすることもなく、暗くなったらすぐに寝たのかもしれない。その夜の食事をまったく覚えていない。レストランに行くカネなどないから、パンを買って食べたのだろう。

 べルギーのブルージュ、イギリスのバース(Bath。風呂のbathの語源となる街だとする俗説があるが、温泉地にちなんでBathという地名になったようだ)などで、ユースホステルに泊まった記憶がある。

 1982年から83年に東アフリカを旅した。もちろんガイドブックはないから、このユースホステルガイドの「ケニア」の項をメモしていた。だから、ナイロビ第1夜はユースホステルに泊まった。ケニアに行ったことがある日本人から、「イクバルという安宿があるよ」という情報を得ていたが、私はアパートを借りて長期滞在する予定だったので、ホテルに泊まる気はなかった。ところが、ナイロビには、私が「アパート」と想像できるような賃貸住宅は見当たらず、それなら安宿の週決めや月ぎめ料金はないかと交渉したが、どこも断られた。しかたなく、安宿の3人部屋のベッドひとつを日払いで借りることになった。

 というわけで、私の旅で最後に泊まったユースホステルは、ナイロビということになるようだ・・・、いや、その後ジャカルタのジャラン・ジャクサにあった協会非公認ユースホステルに泊まったような気がする。

 

 

1671話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その19

 『ヨーロッパ鉄道の旅』をめぐるあれこれ 1

 

 このコラムは、蔵前さんの「旅行人編集長のーと」で紹介していた『ヨーロッパ鉄道の旅』(山本克彦、白陵社、1969)について、ちょっと書くだけの予定だったが、若き漫画家が日本を出た1972年当時の旅行事情なども書こうとしていて、どんどん長くなってしまった。連載19回目にして、やっとこの本に触れることができたが、まだ簡単に終われそうもない。

 『ヨーロッパ鉄道の旅』はガイドブックかと思ったが、入手して読んでみれば、横浜を出てからモスクワに着くまでは旅行体験記だ。ソビエトのビザや船と鉄道も料金も書いてない。「そういうことは旅行社できいてくれ、どっちみちソビエトのビザは個人では取れないのだし」という方針らしい。全体の3分の2にあたるヨーロッパ編は、トーマス・クックの時刻表がついた旅行記だから、街の説明も安宿情報もない。

 著者はトラベル・センター・オブ・ジャパンという旅行会社の社員で、トーマス・クック社、ソ連政府観光局、山下新日本トラベルサービスの協力を得て、この本ができたと「あとがき」にある。したがって、ソ連のことは政府観光局で調べてほしいということだろう。だから、ソビエトの不満苦情はこの本には一切出てこない。ソ連旅行のことは、勤務先の旅行社か、山下新日本トラベルサービスの広告を見て、会社に来てほしいということだろう。

 その広告に、こうある。原文のまま書く。

 

ソ連邦への旅行

ソ連邦経由のヨーロッパ旅行は

 横浜―ナホトカラインをご利用下さい。

年間59航海、横浜―ナホトカ片道21,800円より40,400円まで5クラスに分かれています。

尚当社はソ連旅行公式代理店でありナホトカ経由モスコウ滞在2日間を含めてヘルシンキ9万4千円、ローマ11万5千円、パリ11万7千円(電報代、当社手数料別)でお世話いたします。

 

 『ヨーロッパ鉄道の旅』に宿情報はないから、旅行者は到着駅構内の観光案内所で教えてもらうか、“International Youth Hostel Handbook”を持っているか、その翻訳版である、『世界旅行あなたの番』(蜷川譲、二見書房)を買うことになるだろう。この本は1963年の初版以降改訂重版を重ね、私の手元に1963年初版と1969年の7版がある。鉄道旅行のガイドとしては、『世界旅行時刻表』(蜷川譲、二見書房、1970)の方がはるかに詳しい。上記『世界旅行あなたの番』と同様、旅行体験記に情報をつけたという構成ではなく、ユースホステルと鉄道情報だけという内容だ。定価は880円で、「ヨーロッパ鉄道の旅」(390円)の倍だが、情報量ははるかに多い。

 1973年から1990年代のある時まで、ガイドブックを持って旅をしたことがほとんどない。例外となる2冊が、『アジアを歩く』(深井聰男、山と渓谷社、1974)と、香港で買った“South-East Asia on Shoestring” (Tony Wheeler, Lonely Planet, 1977)だけだろう。些末なことだが、今気がついたことがある。ロンリープラネットは、本の表紙にはlonely planetと小文字だけで表記しているが、日本で言えば奥付けにあたる部分の発行元の表記は、Lonely Planetと大文字を使っている。

 それはさておき、私がガイドブックを持たずに旅していたのは、私が使えるガイドがなかったからだ。東アフリカに行った時は英語のガイドさえなかったから、私が自分で書いた(『東アフリカ トラベルハンドブック』(オデッセイ)。タイで過ごしていた時は、地図があればよかった。私の旅は観光地を転々と移動するというものではないから、地図を見ながら歩けばとりあえず用は足りる。街や国そのもののガイドは、本屋などに行って資料を買いあさる。1975年のヨーロッパ旅行でも、街に着いたら観光案内所に行って地図をもらい、安宿を紹介してもらう。アジアの旅だと、安宿や交通のほかさまざまな情報は、旅行者に教えてもらった。それが、1970年代から80年代のごく普通の旅だった。宿を予約しておくなどということは、少なくともリュックを背負っている旅行者がやることではなかった。だって、予約などしていたら、予約どおりの旅をしなければいけないじゃないか・・というより、予約を受けつけるような宿には、めったに泊まることはなかったのだ。

 「旅行ガイドブックなど要らない。ない方がいい旅ができる」と思っているわけではない。例えばインドで言えば、私が旅をしたのが、1973年、74年、78年だったから、ガイドブックはまだなかったというだけのことだ。もし、1980年代に入って、初めてインドを長期旅行しようと思っていたら、出たばかりの『地球の歩き方 インド』や『ブルーガイド海外版 インド』(これも深井聰男さんの手によるものだったはず)などを買って、旅に持って行っただろう。そして、安宿に置いてある旅行情報ノートを読み、書き込みをしただろう。

 

1670話 「旅行人編集長のーと」に触発されて、若者の旅行史を少し その18

 シベリア鉄道林芙美子

 

 戦前期にシベリア鉄道でヨーロッパに向かった有名人は何人もいるが、そのなかでもっとも知られているのは林芙美子だろう。林芙美子関連の本は、旅行記研究のために何冊も読んでいるのだが、棚を探してもすぐには見つからない。そこで、研究者が書いたものを利用させてもらう。

 毎日新聞記者から京都学園大学教授になった福永勝也の論文、「林芙美子のパリ・ロンドン 『放浪記』と彼女をめぐる男たち」の助けを借りる。

この論文を読んで初めて知ったのは、林は金子光晴・森三千代夫婦の旅にあこがれて、夫婦で道中稼ぎながらヨーロッパにたどり着くような旅をしたかったのだが、いろいろあって、ひとりでシベリア鉄道経由の旅となった。

 その部分を引用する。

 

 一九三一(昭和六)年一一月四日,芙美子は東京駅を出発して名古屋と大阪でそれぞれ一泊,さらに門司で二泊した後,九日夜に下関発の関釜連絡船で釜山に渡る。その後,京城奉天長春満州里を経て,二〇日にシベリア鉄道でモスクワに到着している。さらに「退屈極まりない」列車行が続いた後,やっとヨーロッパに入り,ワルシャワ,ベルリン,ケルンを経て一一月二三日午前六時四三分,夢にまで見た「花の都」に到着するのである。

 

 林の概算では、日本からパリにたどり着くまでの諸費用は400円、パリでの生活費は1か月70円と計算し、所持金の1000円では1年暮らせないとわかる。

 戦前期に世界の鉄道旅行をした文豪たちを描いた『文豪たちの大陸横断鉄道』(小島英俊、新潮新書、2008)がおもしろい。出版時に読んでいるのだが、内容をまったく覚えていなかった。林芙美子の本は本棚で見つからなかったが、この選書を見つけたのは幸運だった。林芙美子が使ったルートは1912年に完成したという。1931年の東京からロンドンへの運賃は1等433円、2等は286円で、当時のサラリーマンの年収程度だったらしい。

 この本では「鉄道か船か」という問題を取り上げている。

 1935年当時、横浜―ロンドン間は航路で約40日、ハルピンルートの鉄道で15日間かかった。旅費は鉄道の方が安く、かつ日数的に早いのだが、荷物を抱えての乗り換え、通関の手続きが煩雑、通貨国のビザも必要。通行地域の治安に問題があり、車掌のタカリもあり、問題が多いという。船は時間がかかり鉄道よりも高額だが、日本を出れば、ヨーロッパ到着まで出入国や通関の手続きはなく、船でのんびりできるので、家族向きでもあるようだ。したがって、時間とカネがある者は船を使い、少しでも早くあるいは安くヨーロッパに行きたいか、途中立ち寄る場所に何かの用がある者は鉄道を使うという大筋が見えてくる。林芙美子の場合は、鉄道を使ったのは「できるだけ安く」という目的が大きかっただろうが、旅の途中で見聞きしたことをいつか文章にしようというライターの根性というかサガといったものもあったのかもしれない。

 戦後、シベリア鉄道経由ヨーロッパの旅が再開するのは、1961年に横浜・ナホトカ線の航路ができてからだ。五木寛之がこのルートでヨーロッパに向かったのは、1965年だった。帰国後、モスクワで出会ったジャズ好き少年を描いた『さらばモスクワ愚連隊』を1966年に発表、1967年に『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、同年「平凡パンチ」での連載をまとめた『青年は荒野をめざす』を出版。五木が作詞しザ・フォーク・クルセイダーズが歌った同名の曲が大ヒットしたのは、1968年だった。

 日本の若者、特に男が「ああ、シベリア鉄道、ヨーロッパ放浪の旅・・・」とあこがれた起因は五木にあるのだが、高校生だった私はアジア志向だったので、五木の影響は受けていない。寒いところは嫌いなのだ。「放浪する私」に陶酔する性癖は、私にはない。