1802話 若者に好かれなくてもいい その2

 

 またパソコンのトラブルで、ワードに書いた原稿が突然取り出せなくなり、更新がちょっと遅れた。機械は、嫌いだ! カネもかかるし。

 さて。

 昔の話に興味があるかどうかは人それぞれだから、聞きたくない、興味がないという人もいるだろう。私は、父や祖父母や曾祖父母など一族のことよりも、日本人と海外旅行の歴史により強い興味がある。

 150年前の若者は外国をどう思っていたのか、外国に行くというものをどう感じていたのか、大いに興味がある。150年前でなく、70年前の1950年前の若者は海外旅行をどう思っていたのかというようなことに興味があって、資料を買い集めて読んだり、その時代の体験者に会いに行くこともある。例えば、1932年生まれの作家小林信彦は、20代だった1950年代にアメリカの小説などを呼んでいたが、そのアメリカには生涯行くようなチャンスはないだろうという絶望感に襲われていたという。1960年代でさえ、若者が気軽に外国に行くことができる時代ではなかった。日本からは出られない閉塞感、外国を自分の肌で感じることができない絶望感は、1950年代生まれの私にはない。だから、1950年代の若者の話をよく読む。

 旅行に限らず、自分が知らない時代の話を聞くのが好きなのだ。昔話を聞くことは喜びであり、決して苦痛ではない。

 戦中戦後に新聞記者だったという人から、定年を迎えての感慨を聞いたのも興味深かった。旧かな遣いから戦後新仮名遣いに変わったときを体験している世代だから、ついつい旧かなで記事を書いてデスクにしかられたとか、「さて、新かなで、どう書くか?」と考えながら記事を書いたといった話は、いままであまり耳にも目にもしたことがない話題だからとても興味深かった。

 もちろん、どんな話でも興味深いというわけではないが、30歳を超えたころから年長者の話がおもしろくなった。

 今でも記憶に残る昔話がある。私が若かった頃の話だ。アフリカから帰って仕事のない私に、知り合いの編集者が、「お前ならできるだろう」と仕事をくれた。私の仕事は、すしに詳しい人が語る対談のテープ音声を構成して、原稿用紙15枚の原稿にすることだ。90分ほどの音声を聞き、重要だと思われる部分を拾い集めて、順序を入れ替え、まとまった対談原稿にする仕事だ。

 すしの歴史を語るのは、1879年創業の日本橋「吉野鮨」の三代目店主吉野曻雄(よしの・ますお。1906~1991)さん。店主になる前は、野口元雄という芸名の俳優で、NHKドラマ「事件記者」に出演していたのを私も覚えている。インタビュー当時は、すし研究家でもあった。このインタビューの聞き手は、食文化研究者の石毛直道さん。もちろん名前は知っているし著作もほとんど読んでいたが、面識はまったくなかった。声を聞いたのも、この時が初めてだった。

 すし屋は明治になっても屋台が普通で、店舗を構えたすし屋でも、屋台を屋内に入れたような感じで、職人はカウンターの奥で、畳に正座して握っていたといった話は今も覚えている。私はそういう昔話を聞きたいのだ。

 だから、私が体験している1970年代以降の海外旅行事情を意識的に書き残している。昔話に興味のない若者のことは気にしない。若者に好かれなくてもいいのだ。もしも、私のように海外旅行史に興味のある人が読むかもしれないと思って書いているだけだ。

 

 

1801話 若者に好かれなくてもいい その1

 

 高田純次はテレビのインタビューで、年をとっても若者に支持されるヒケツは次の3点だと説明した。

  • 思い出話をしないこと。
  • 自慢話をしないこと。
  • 説教をしないこと。

 しかし、この3点は高田のオリジンナルではなく、昔から中高年になった男は気を付けてきたのだろうと思う。

 有名人の家族の歴史を追ったNHKの「ファミリー・ヒストリー」を見ていると、「我が家のことを、父は何も話さなかったので、まったく知らないんです」と語る出演者がじつに多い。祖父母のことは知らず、父が勤めていた会社の名は知っているが、具体的に何をしてきたのかまるで知らないという人がほとんどだ。母は多少過去を語っても、父は自分の子供の頃、若い頃のことを子供に語って来なかった。

 まったくの想像だが、この番組を見ている人たちの家庭も同じようなものではないか。他人事のように書いているが、ウチでもそうだ。父のことは原稿用紙1枚程度しか情報がない。父は過去のことを話したいようだったが、バカ息子は父の歴史やその時点での現在にまったく興味がないということを父は感じ、何も話さないまま生涯を終えた。父が死んで、そのことに初めて気がつき、母に尋ねたが、結婚前のことは母も知らず、結婚後も仕事の詳しい内容は知らなかった。母の生涯も知らないので、この際ちゃんと聞いておこうと思い、子供時代の話からインタビューを始めたことがある。

 母方の祖父母の話は普通にしゃべっていたのだが、自分の両親の話になると、急に眼に涙を浮かべ、嗚咽した。そのとき、母が泣くのを初めて見た。子供時代の悲しい思い出があるらしいとわかったが、それ以上話を進める気にはなれなかった。

 直接母に聞きにくいから、叔母に聞くと、「お姉ちゃんは、子供の頃の話になると、いつも泣くのよね」と言った。祖父は上海で薬局を開くことになり、生まれたばかりの母を連れて移住した。祖父は実にやさしい人だったようだが、上海で急死し、残された妻である祖母は、営んでいた薬局のカネを持ち出して遊びまくるという人だったそうで、母がその実害をまともに受けたようだ。ひとりで店番をしつつ、上海で生まれた妹たちの面倒をみていた母の、悔しさやさみしさやなさけなさが生涯消えなかった。何十年たっても上海のその頃のことを思い出すと、母の目に涙があふれるのだと叔母が言う。だから、私が聞き出そうとするまで、母は自分からはひとこともしゃべらなかったのだ。

 若者は過去の話を聞きたくないものらしいが、もう若くはないという年齢になると、自分の家族の歴史のほか、興味ある分野の歴史を知りたくなる。私の場合なら、東南アジアの歴史、とくに近現代史。人力車から三輪車への歴史。食文化史や海外旅行史などの資料を集め、過去を実際に知っている人に出会うと話を聞きに行った。昔話を「おもしろい」と思った。昔の話をしてくれる年寄りはありがたい存在なのだが、残念ながら若い時はそのことに気がつかない。

 

 

1800話 旅とクレジットカードと医者と

 

 自称Amazonからの怪しいメールはほぼなくなったが、あやしげな薬を売りたいらしい英語のメールはひっきりなしに来ている。数日前から来ているのは、自称みずほ銀行からの「外貨預金の再登録のお願い」だ。私がみづほ銀行の口座を持っているという情報が洩れているようだが、外貨預金もインターネットバンキングも、もちろん関わっていない。別の怪しいメールは、「おばあちゃんがおこづかいをあげます。ここをクリックすると500円」のような、ひらがなが多いメールが来たが、スマホを持っている小中学生向けか? こういう不愉快なメールを防ぐもっとも有効な対策法は、メールアドレスを変える事だろうが、面倒だなあ。

 さて。

 きょうは、3か月ごとの定期検診に行った。

5年ほど前から私の担当になった若き医者は、「そろそろ旅に出るころですか」と世間話を振ってきた。定期的に病院通いをしなければいけない身なので、旅のスケジュールと検診日の調整や、旅行中の健康管理などの相談をしているので、私がよく旅をすることは、出会った最初から伝えている。この医者も、詳しいことは知らないがデンマークでしばらく生活していた経験があるという。

 「これからヨーロッパは寒くなるし、熱帯の旅行も気分的に重いし、円安だし、以前のような旅は来年以降ですかね」

 「円安ねえ。医者の世界も円安はけっこうつらいんですよ。薬品とかコンピューターを含めた医療機器とか、じわじわと・・・」などと言いながら、「今回は、血糖値がちょっと高いですね」とじわりと注意される。

 「旅行中、突然倒れるなんていう心配はしてもしょうがないし・・・」

 「ええ、絶対に大丈夫なんてことはないですからね」

 「だから、旅行保険はちゃんと入っておこうと思うんですが、年齢が高くなるにつれ保険料が高くなるのが問題で、友達は『クレジットカードのゴールドカードを持っていれば、わざわざ旅行保険なんて入らなくてもいいよ』なんて、無茶なことを言うんですよ」

 そういう無茶なことを言ったのは、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんだ。「ゴールドカードを持っていれば、病気もケガも物損にも有効だよ。前川さんも持てばいいのに」などという。ゴールドカードは、「欲しい」と思えば、持てるものじゃない。田中真知さんも、旅行保険はクレジットカードのサービスを利用しているらしい。

 「私には無理ですが、医者なら簡単でしょ」と、若き医師にいってみた。

 「いえいえ、とんでもない。医者といっても貧乏な医者もいます。救急救命医だと、アルバイトをする時間はありません。一番忙しい医者が一番貧乏なんです」

 「開業医なら裕福だから・・・」

 「というわけでもないんです。多額の借金を抱えている人もいますし、うまくやっている人は稼いでいますが、うまくやれない人ややらない人もいます」

 テレビ番組を思い出した。「歯科医院はコンビニよりも多い」とよく言われる。考えてみれば、ウチの半径2キロ以内のところに、コンビニは6軒、歯科医院は12軒ある。テレビ番組の歯科医は、自分の歯科医院の診療後、夜間はアルバイトで他の医院で働いている。こうしないと家賃や医療器具の支払いができないのだという。

 「私のところにも、クレジットカードのDMはよく来ますよ」と若き医師はいう。「でも、年収は低いし持ち家もないので、審査に落ちるでしょうし、審査が通っても、バカ高い年会費はとても払えませんよ」。アメックス・ゴールドカードの年会費は3万1900円。プラチナカードは14万3000円。

 清貧の医者であった叔父の紹介で母が通い始めたこの病院なので、医師用駐車場に高級車はない。

 

 

1799話 旅と食い物とガイドブック その3

 

 ロンリー・プラネット社が出したポケット版食文化ガイド”World Food”シリーズの”Thailand”(2000)を例にして、内容を点検してみよう。書き手は、Joe Cummings。ロンリープラネットの旅行ガイド”Thailand”ほか数多くのガイドブックを書いているライターだ。ここでは、まず目次の大項目を書き出してみる。タイ料理を扱った日本語の本とは違い、店ガイドもレシピもない。タイ人の食文化の概要を書いたものだ。

 The Culture of Thai Cuisine

 Staples & Specialities・・・稲作とコメの説明に8ページを使っている。

 Drinks・・・アルコール飲料なら、ビールから自家製の焼酎まで取り上げている。

 Home Cooking & Traditions・・・食べ歩きガイドではないから、家庭の料理の話はあり、当然、台所と調理道具にも言及する。

 Celebrating with Food・・・行事食の説明があり、あとのページで屋台飯の話もある。

 Foreign Infusion

 Regional Variations

 Shopping & Markets
   Where to Eat & Drink

 Street Food

 A Thai Banquet

 Fit & Healthy

 Recommended Reading

 Eat Your Words

 Photo Credits

 Index

 上の目次でもっとも注目すべきは、225ページから始まる”Eat Your Words”の章で、これは食文化用語のページだ。食事のタイ会話集というのはほかにもあるし、情報センター情報局の『食べる指さし会話帳』にもあるのだが、ここには「英語・タイ語食文化単語帳」がある。例えば、見出し語”catfish”には”plaa duk”(発音記号省略)とローマ字で発音を書き、そのあとに、 “ปลาดุก”とタイ語がある。単語帳のあとに、「タイ食文化辞典」もあり、今度はタイ語を見出し語にして、その発音記号と英語の説明がついている。タイ語が読めなくても、タイの食文化に強い興味があれば、読み物としておもしろい。

 他の巻も、基本的に現地語と英語の2言語単語帳が巻末についている。”Morocco"なら、英語にモロッコアラビア語とその発音がついている。”India”は、英語とヒンディー語の説明がついているが、文字はローマ字になっている。

 ベトナムインドネシアでは基本的にローマ字表記だから、そのまま使っているが、発音の注意は書いてある。

 ロンリー・プラネットは、引き続き食べ物本を出し続けている。2010年代あたりから始まったストリート・フードのブームに乗ったのか、屋台飯を取り上げた。”World's Best Street Food”や”The World's Best Bowl Food: Where to find it and how to make it”などを出している。「地球の歩き方」の食の図鑑シリーズは、そういう流れを追ったものだろう。

 「地球の歩き方」には、これほど広く詳しい内容の本を書くことのできるベテランライターはどれだけいるのだろうか。ある地域やある分野の詳しい文章を書いた人はどれだけいるだろうか。確実に言えることは、このWFのような本を日本で出しても、読者がいないということだ。その例となるのは、農文協が出している「世界の食文化」シリーズの中で『スペイン』(立石博高)が出色の出来なのは、著者がスペイン近代史の専門家だからだ。1960年代の独裁者フランコの政権が外貨獲得のために始めた観光政策で「太陽の国アンダルシア」、「フラメンコ」、「トマトとオリーブオイルのスペイン料理」などを売り出したといった記述は、どの料理のレシピよりも貴重だが、たぶんそれほど売れなかっただろう。読者はもちろん、ライターも編集者も食文化にはほとんど興味はないのだ。

 誤解のないように蛇足を書いておくが、私は「店ガイドやレシピ本や食談本はいらない」と言いたいのではなく、いつまでもその種の本しかないことを残念に思っているのだ。世界各地の料理の場(あえて「台所」と言わないのは、家庭で調理はするが台所という特定の場所のない家庭も少なくないからだ)や、食べられない人たちの話や、食文化と政治とか、語られるべき話題はいくらでもあるのに、出版物はいつもワンパターンだと言いたいのだ。

 ちなみに、“The World’s Best Street Food” の話は、412話(2012-06-20)に書いた。

 

 

1798話 旅と食い物とガイドブック その2

 

 2000年ごろに、ロンリー・プラネット社が”World Food”シリーズを出した。私は片っ端から買っていったが、全部でどれだけ出版されたのかわからない。ロンリー・プラネットのHPで確認しようとすると、「クッキーを入れれば見せたやる」という態度なので、見てやらないことにした。

 このシリーズに関してアマゾンは無力なので、別の方法で探した情報を書いておく。出版年の順は無視して、このシリーズの全貌らしき姿を書き出してみる。資料では17冊あるが、それで全部かどうかはわからない。太字は、私が買った11冊。このころ、2000年ごろ私はまだポルトガルの食文化に興味がなかったから、買っていない。「地球の歩き方」読者だけでなく、ロンリー・プラネット読者も、韓国や台湾の料理には、当時はまだ興味がなかったことがわかる。ラインナップに"Italy"が入っていない理由がわからない。

 “Spain”/Malaysia&Singapore/“France”/”Turkey”/”Portugal”/”

Japan”/”Vietnam”/”Greece”/”Thailand”/”Hong Kong”/”Mexico”/

New Orleans”/”Morocco”/”California”/”India”/”Caribbean”/“Indonesia

 このWorld Food(以下、WFと表記)は、日本の文庫本よりもやや大きいくらいのポケットサイズだ。つまり、旅の実用書を想定している。オールカラー250ページほど、紙が厚いので重い。300グラム以上あるから、ハードカバーの単行本とあまり変わらない。その点では携帯用とは思えない。

 オールカラーといっても、「地球の歩き方」とは違い、料理のカラー写真はそれほど多くない。見せる図鑑ではなく、読ませ、調べさせる構成だ。

 これはWFに限ったことでなく、欧米と日本のガイドブックの違いなのだ。日本のガイドブックは写真の情報が多く、文字情報は極めて少ない。国にもよるが、レストランガイドと商店ガイドに多くのページ数を割く。ロンリープラネットも、昔と比べればカラーページが増えたが、安宿や飯屋の外観写真をカタログのように並べる構成ではない。

 ロンリープラネットの場合は、おそらく特定のレストランや土産物屋の利益のためのガイドはしないという方針だろうと思う。「レストラン店内で豪華料理写真」というものは、現在は知らないが、当時はなかった。もしも料理の写真を撮影することがあるなら、料理の代金は支払っただろうと思う。「地球の歩き方」は推測だが、たぶん支払っていないと思う。

 WFがどういう構成になっているかよくわかる資料がある。”Malaysia&Singapore”の「試し読み」をご覧ください。次回で、より詳しく解説する。

 この際だから、情報センター出版局の「食べる指さし会話帳」のラインアップも載せておく。このシリーズのアジア料理の巻は、全部買っている。ロンリープラネットのWFと同じ時期の出版だということに関連があるのかどうかは知らない。『香港』がないのも気にかかる。香港返還は1997年で、この2000年代には日本人旅行者には、香港を「食べ歩く街」としての魅力はないと編集部が判断したのだろうか。

 『食べる指さし会話帳 1 タイ タイ料理』(2001)、『2 韓国料理』(2001)、『3 ベトナム料理』(2002)、『4 台湾 台湾&中華料理』(2003)、『5 中国 北京&は上海料理』(2004)、『6 フランス フランス料理』(2004)、『7 イタリア イタリア料理』(2008)、『8 インドネシア インドネシア料理』(2008)、『9 JAPANESE FOOD(英語→日本語)』(2009)

★蔵前さんが気がついたように、「マレーシア&シンガポール」編へは飛べなくなったので、"Vietnam"をご覧ください。カーソルを文字の上に置くと、飛べます。

 365話(2011-11-01)でも、この1798話と似たような話を書いていたと、たった今知った(自分で書いた原稿だが・・・)。それで思い出したのは、神田古本市で、ワールド・フードのシリーズの何冊かを100円で買ったそうです(他人事のようですが)。この人物もまた覚えていないと思うが、かのクラマエ師も、ちゃんと"India"を買って、しかも読んでいる。さすがですが、98%の確率で、11年前のことは覚えていないと思う。

 

 

1797話 旅と食い物とガイドブック その1

 

 自由に旅行に出かけられない時代になって、『地球の歩き方』は「目の旅図鑑」とでもいった本を次々と出版している。料理関連に限って書名をあげておく。

 2021~2022年に出版された本だ。

 『地球のかじり方 世界のレシピBOOK』

 『世界の地元メシ図鑑』

 『世界の中華料理図鑑』

 『世界のカレー図鑑 101の国と地域のカレー&スパイス料理を食の雑学とともに解説』

 『世界のグルメ図鑑  116の国と地域の名物料理を食の雑学とともに解説-本場の味を日本で体験できるレストランガイド付き!』

 私のあまりあてにならない記憶では、「地球の歩き方」が最初に出したグルメシリーズは、もう30年ほど前になるだろう。それは「旅のグルメ」というシリーズで以下のようなリストになる。1990年前後という時代では、「地球の歩き方」の読者(このころは、まだ20代の男女が多いだろう)は、まだ韓国や台湾には興味はないと編集部で判断したということだろうし、インドは「グルメ」のは遠いという判断もあっただろう。こういうラインアップを見ていくと、1990年前後の、日本人の外国料理への興味範囲がよくわかる。

 『旅のグルメ 香港』(1989)

 『旅のグルメ パリとフランス』(1990)

 『旅のグルメ タイ』(1991)

 『旅のグルメ ヨーロッパ』(1992)

 『旅のグルメ イタリア』(1993)

 これらのシリーズは改訂新版や2版3版なども出ていて、そこそこ売れたようだ。

 「旅のグルメ」シリーズのなかで、本の内容を実際に知っているのは『旅のグルメ タイ』(戸田杏子&佐藤彰)だけだ。最初の50ページほどは、タイの食文化概説と食材と料理図鑑。次のページからは料理店案内で、タイ国内の店が38店、日本のタイ料理店が10店載っている。ほとんどの日本人には、まだ「タイ料理って、どんなもの?」という時代だから、日本国内のタイ料理店ガイドを載せておくという編集方針は悪くない。この時代の日本のタイ料理店事情がわかるので、今となっては貴重な資料になっている。

 戸田杏子(1941~2006)さんは、『世界一の日常食 タイ料理 歩く食べる作る』(晶文社、1986)や『タイ 楽しみ図鑑』(新潮社トンボの本、1990)で、タイに興味がある人には知られた存在だった。私が初めて彼女の名を目にしたのは、たぶん『宝島スーパーガイドアジア タイ』(1983)だったと思う。 

 食べ物の本がレシピ本(お料理本)と店案内ガイドとは別に、食文化を語る本が出ないかなあと、1970年代から待ち望んでいたのだが、イタリアやフランスなど一部を除けば、今もガイド中心だという出版事情は変わらない。タイ料理を日本で作ってみるということに対する時間とカネと情熱はあっても、タイ料理に関わるライターたちでさえ、タイ人の食生活の過去と現在にはほとんど興味がないようだ。

 しかし、ロンリープラネットは違ったという話を次回に。

 

 

1796話 Bangkok R&R hotels 後編

 

 元R&Rホテルのなかで、例えばマレーシアホテルは少々カネを持った個人旅行者を相手にしていた。1970年当時、まだバックパッカーという語は一般に広まっていない。安宿街カオサンがまだなかった時代、西欧的な快適な滞在を希望する旅行者は、「安くて、いい」という理由で、マレーシアホテルなどを利用していた。コーヒールームではアメリカ式朝食が食べられるし、プールがあるし、部屋にはエアコンがあった。

 ベトナム戦争当時のバンコクのホテル事情を調べていると、マイアミ、フロリダ、マンハッタンなど、名前からしていかにもR&Rホテルだとわかる。R&Rホテルらしい名ではないが、キャピタルというホテルが気にかかった。前回紹介した米兵向けガイドブックには、こうある。

 Capital  Bahoyothin Road    now being used as quarters for U.S. military personnel.(現在は、米軍人用住居になっている)

 米兵用ホテルではなく住まいになっている施設はほかにもあるが、気になることがあってさらに調べてみた。

 キャピタルホテルは1962年1月に開業したのだが、その年の6月には米軍人用のサービスアパートになっている。サービスアパートというのは、アパートだが、掃除洗濯食事などホテルの機能もある施設のことで、このキャピタルがタイ最初のサービスアパートだという。

 アメリカ軍がベトナムから撤退するのは1973年で、75年にはベトナム戦争終結する。だから、ホテルと米軍との契約がいつまで続いたのかは不明だ。

 タイは1975年以降新しい時代に入る。この年、タイは中国と国交を再開し、バンコクに中国大使館を開設した。その場所が、このキャピタルホテルだと知って、びっくりした。中国が支援する北ベトナム軍と戦っていたアメリカ軍が使用していたビルに、中国が大使館と大使公邸を開設したのだ。キャピタルホテルのオーナーがどういう人物かまったく知らないが、時代の潮目を見る能力があるということは、タイ政府と深い関係がある人物かもしれない。

 あのビルが中国大使館だった時代は、現在のラチャダーピセーク通りの建物に移るまで8年続いた。その後の入居者は、これも時代の流れを読んだのだろうが、日本人専用のサービスアパートに生まれ変わった。

 2000年代に入ると老朽化が目立ち、全面的なリフォームをして、2009年にThe Capital Mansionとして生まれ変わった。1967年当時の写真はこれ。mansionは「大邸宅」という意味だが、日本で「高級アパート」の意味でわざと誤用するようになり、タイの不動産業者はそのマネをして、アパートに「マンション」という語を使う業者も現れた。1990年代にプロンチット地区に建設中のアパート「ホリデー・マンション」は、折からのホテル不足で方針を変えてホテルにした。名称は「ホリデー・マンション・ホテル」となった。

 ちなみに、「サービス・アパート」という語も英語としては不自然で、英語なら”serviced apartment”だ。これを「サービスアパート」と呼ぶのは、確証はないが、日本の不動産用語のような気がする。「マンション」と並んで日本語からの移入ではないかと疑っている。

 こうやって調べ事をしているのも、旅の遊びである。