9話 タダでも


 ある出版社に行ったら、編集者が早急に片付けなければいけない仕事があって、ちょっと待つことになった。
「5分ほどで済みますから、ちょっとすいません。そのあいだ、ここいら辺にある本で好きなのがあれば、どれでも持っていっていいですから。あっちの会議室にも本がありますよ」
 「ここいら辺にある本」というのは、編集室の片側に並んだ段ボール箱が10個ぐらいはあっただろうか。会議室の机も、本が山になっていた。他社の新刊で ある。出版社では、雑誌編集部には書評用に本が送られてくるし、雑誌・単行本・新書なども出版社相互で送りあうという習慣があるようで、部屋には膨大な量 の本が置いてあった。ちょうど年末で、不用な本を整理しようという時期でもあった。
 本が好きな者にとって、「どれでも、お好きなものを、お好きなだけどうぞ」という言葉は、福音である。さっそく段ボール箱の本をチェックしはじめたが、 すぐに「だめだ、こりゃ」とわかった。どれも小説なのだ。純文学でもミステリーでも時代小説でも、とにかく私は小説にほとんど興味がないのだ。かつては定 期購読していた「本の雑誌」を読まなくなったのは、あの雑誌が小説偏重だからだ。
 会議室の本は多少エッセイなども含まれていたが、触手を伸ばすような本は一冊もなかった。1000冊以上の本を前にして、読みたい本は、見事に、一冊も なかった。はっきり言えば、タダでもいらないという本だ。おそらくは生涯最初で最後の「本がタダ」というチャンスだったろうに、収穫はなにもなかった。
 神田のある古本屋の店頭には、本が入った箱があり、「ご自由にお持ちください」と書いた張り紙がついている。その書店は私の好きな本を多く置いていると ころで、箱のなかの本も私の好みとそう離れていないものも少なくないから、いつも箱の本をチェックする。しかし、欲しい本がそうあるわけでもなく、いまま で岩波新書を一冊もらっただけだ。
 食料品がタダなら、持って行く人はいくらでもいるだろうが、本は欲しい人にしか魅力がない。