16話 英語の本


  ポルトガルの本屋に、ポルトガル語の本ばかりあるのは当然なのだが、それが当然だと感じなかったのは、東南アジアの書店事情に慣れてしまっているからだ。 ラオスを除けば、程度の差はあれどの国でも英語の本が手に入る。イギリスやアメリカの植民地だったマレーシア、シンガポールビルマ、そしてフィリピンは 当然としても、ベトナムでもインドネシアでも、多少なりとも英語による現地資料が手に入る。
 興味深いことに、西洋の植民地にならなかったタイが、英語の現地資料という点ではもっとも充実している。英語による出版活動が大変さかんであるのと同時 に、東南アジアの他の国々の資料も輸入してかなりそろっている。数年前のことだが、マレーシアの資料を探しにマレーシアに行ったが、バンコクの書店のほう が品揃えがよかった。インドネシア関係の本を探す場合でも、英語の本ならわざわざインドネシアに行くよりも、バンコクで探したほうが効果的だと思う。もち ろん、バンコクで入手できないインドネシアの本はあるから、理想的には、すべての国のすべての書店で本探しをやるしかないのだが、どこか一カ所で済ませる ならシンガポールよりもバンコクに行くほうがいいだろう。
 タイ人は、シンガポール人やフィリピン人のようには英語が読めないから、バンコクの英語出版物はおもに外国人向けだろう。私のように、なんでも知りたが る外国人にとってはまことにありがたい出版事情である。あまりにありがたくて、タイ語を読む勉強をおろそかにしてしまうくらいありがたいのである。もちろ ん、どんな情報でも英語文献で入手できるというわけではない。当然のことだ。しかし、こまめに文献探しをやると、かなりの情報が手に入る。各種統計資料 も、タイ語版と並んで英語版も入手できる。要は、どれだけこまめに本屋巡りをやるかであり、その本のなかで自分が必要な情報がどこにあるかを手早く探す技 術だろう。
 英語の出版物ばかり読んでいる弊害は、たしかにある。英語の本を書いているのは多くは外国人だから、外国人の視点で見たものばかりを資料に使うのは問題 である。鶴見良行のように英語に堪能だと、どうしても英語資料に頼りがちになるという問題もそこにある。ただ、私のように学者でもないただのライターな ら、なんの資料も読まず印象と感想だけで文章を綴るよりは、英語の資料であっても読まないよりは読んだほうがいいと思っている。『地球の歩き方』が唯一の 資料というんじゃ、しょうがないだろう。 タイの本を書くなら、タイ語ができたほうがいいのは当たり前のことだ。ただし、タイ語ができれば、タイに関する すばらしい本が書けるというわけではない。今ではタイ語が読める日本人はかなりいるようだが、だからといって、「さすがタイ語ができるとこんなにもすばら しい本が書けるんだなあ」と感心するような本はほとんどない。タイの小説が読めるくらいのタイ語力があっても、タイに関する基礎知識さえもないという人も いる。タイ語学習が何かを知るための手段ではなく、学ぶことそのものが目的になっているから、無駄な語学力がついただけで終わるのだ。
 外国語を学ぶよりも、まず日本語をきちんと学んだほうがいいように、外国語の本を読むまえに、まず日本語の関連資料をきちんと読んだほうがいいのは、言うまでもない。