23話 外国語学習の歴史


 世の中には、「ちょっと前までは考えられなかった」というようなことがいくつもある。コンピューターや携帯電話といった工業製品はもちろん、アジア関係のものごとでもそういった例はいくつもある。例えば、外国語学習の場だ。
 大宅賞を受賞した『北朝鮮に消えた友と私の物語』(萩原遼、文春文庫)を読んでいて印象に残ったことのひとつが、著者の朝鮮語学習遍歴だ。
 1950年代末の事情をこう書いている。
「当時の天理大には現職警官に朝鮮語を教える『別科』なるものがあり、現職警官が公然とキャンパスに出入りしていた日本で唯一の大学だった」
「当時日本人で朝鮮語を勉強するのは警察と公安と相場がきまっていた。密入国者の尋問や左翼の朝鮮人を取りしまるためである」
 朝鮮語をきちんと学ぶには、当時は天理大しかなかったらしい。そこで、萩原は当時は誰でも入学できるほどやさしい大学であった天理大を受験するが、不合 格になった。警察のために作った学科に、共産党員である著者はとうてい入学できるわけはないということらしい。そこで、朝鮮青年同盟朝鮮語講座に通うこ とになった。そこは、北朝鮮に帰国する青年に朝鮮語を教えるための講座だった。そして、1963年に新設された大阪外国語大学朝鮮語科に入学し、最初の学 生となった。東京外大には、まだ朝鮮語科はなかった。
 朝鮮語と中国語は政治的な問題もあって、学習施設が少なかったのだが、他のアジア言語の場合は、ただ単に学習者が少なかったからだ。いや、アジア言語に 限ったことではなかった。街に英会話学校はいくらでもあるが、イタリア語やポルトガル語を学びたいと思ったら、教育施設は少なく、長時間かけて通学するか 独習することになる。
 1980年代でも、タイ語インドネシア語を学びたいと思ったら、外語大に入学するか、あるいは教科書を買って独習するか、大使館や観光局に行って語学 教室を紹介してもらうしかなかった。インターネットが普及していなかった時代は、語学講座を探すのも大変だったが、その時代はそもそも講座じたいがあまり なかったのだ。
 1950年代に、東京外語大のタイ語科で学んだという知り合いの話をひとつ。
 彼がタイ語科を選んだのは、英語科やフランス語科では難しいすぎて到底入学できそうもないから、もっとも希望者が少なそうなインドネシア語科かタイ語科 にしようと考えて、「ええい、どっちでも同じようなもんだ」とタイ語科を選んだ。授業が始まると、タイ語インドネシア語が「同じようなもの」ではないこ とがわかった。
タイ語もローマ字だと思ってたんだよなあ。しまったと、悔やんだよ」
 彼が特別だったわけではない。タイにはタイ文字があると入学前に知っていた学生は、たったひとりだけだったそうだ。当時はタイ語を教えられる日本人教師がほとんどいなかったから、先生はおもにタイ人の留学生だったそうだ