34話 ヨルダンのアメリカ人


 
 1975年の晩秋、私はヨルダンの首都アンマンにいた。
 ある日の朝、バスで死海のほうに行ってみようかと思って宿を出たものの、バスターミナル近くで若者に出会い、世間話をしているうちに彼の車でドライフす ることになり、いくつかの遺跡を巡り、結局その夜は彼の家に泊めてもらうことになった。珍客の到来を知った彼の親戚や友人たちがやってきて、紅茶を飲みな がら話をした。爆笑のバカ話にはまったくならず、「イスラム教と仏教とは、なにか共通するところはあるのか」という質問や、「パレスチナ人の現状」といっ た解説を聞いたりして、かなり堅い話になったがそれはそれなりに興味深いものだった。
 翌朝、アンマンのユースホステルに戻ると、ドミトリー(大部屋)に客がいた。前々日は、二段ベッドが3台あるその部屋の客は私だけだったが、私が外泊し た日に客がひとり増えたらしい。中年のその男は、長期旅行をしているという風体ではなく、かといってビジネスマンといういでたちでもなく、正体がつかめな かった。
 雑談をしているうちにわかったのは、彼はアメリカ人で、アメリカ文学を専攻する大学教授だということだった。ちょうど、ジャック・ケロアックの 「PIC」を読み終えたところだったので、私の英語力では理解できなかった箇所をいくつか教えてもらった。理知的で、誠実そうで、静かにしゃべる人だっ た。どこの文学であれ、私の不得意な分野ではあるのだが、いくらか読んだことがある黒人文学に関する質問をして、場をつないだ。
 部屋に男が入ってきた。30代くらいで西洋人の顔つきだが、頭にアラブ人がかぶっている布を巻いていた。男と教授はアメリカ英語で話し始め、しばらくす ると突然アラビア語に変わり、またアメリカ英語に戻り、男は部屋を出て行った。私に聞かれてはまずい話だから、アラビア語に変えたのだろうか。それにして も、アメリカ文学の教授が、なぜアラビア語を?
「それは、私がパレスチナ出身だからですよ」といって、簡単な経歴を話しているときに、あの男がまた部屋に来て、ふたりは部屋から出て行った。
 その夜、教授は部屋に戻ってこなかった。翌日、私は南部のアカバをめざして旅立った。以後、教授に再会する機会はなかった。
 日本に帰国してしばらくして、雑誌「世界」を読んでいたら、パレスチナに関する論文が載っていた。もう30年近く前のことだから、その論文が本当にパレ スチナに関するものだったかどうかは、いまとなってははっきりしないのだが、「世界」だったのはたぶん正しいと思う。その論文の「筆者略歴」に目を通す と、アンマンで出会った教授の経歴とまったく同じだった。筆者であるエドワード・サイードの略歴と同じだった。サイードの名はそれ以前から知っていたが、 その経歴はまったく知らなかった。
 それからまたしばらくして、サイードの顔写真を見た。すでに記憶があいまいになっていたから、「完全に同一人物だ」といえるほどの確証はないが、似たタ イプの顔つきだった。「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールの骨格を連想させる印象だったことを思い出した。
 あの教授が、ユースホステルの宿泊客だったかどうかもわからない。知り合いをたずねて来ただけかもしれない。彼はベッドに座っていたが、荷物があったという記憶はない。
 サイードの訃報を聞いて、教授のやさしい口調とともに、丘の多いアンマンの街と、その丘の上にあるユースホステルは、アラビア語で「バイト・シャバーブ」だったなあなどということを思い出した。