51話 魔界に足を踏み入れて(5)

 『外国旅行案内』と68年の旅行事情


 日本で最初の、本格的な海外旅行のガイドブックは、日本交通公社が52年から発行していた『外国旅行案内』だ。77年に『海外旅行案内』とタイトルが変わり、82年まで発行した。
 この本は、70年前後に新刊書店で何度も見かけたが、あまりの高額ゆえに買えなかった。のちに古本屋で見かけたことはあったが、そのころは日本人の旅行 史にはまだ関心がなかったので、買わなかった。均一本コーナーにあったから、せいぜい1000円程度の値段だっただろうが、買う気はなかった。
 何年か分を拾い読みしたのは、数年前に雑誌「旅」で海外旅行史の連載をやったときだ。JTBに残っている古い『外国旅行案内』をざっとチェックして、必要な部分をコピーしただけで、じっくりとは読んでいない。
 その本の68年版(改定21版 第2刷)が売りに出ていたので、さっそく購入。当時の定価は1800円。『値段の明治・大正。昭和風俗史』(朝日文庫) によれば、当時の民宿料金は一泊二食付きで平均1600円だった。小学校教員の初任給が8800円なのだから、定価1600円の本は、高校生だった当時の 私が買えるような値段ではなかった。それを、ネット古書店で600円で買った。今回、このシリーズで紹介している本はすべてこの程度の値段だ。売値は安い が、送料と振り込み手数料がかかるから、実際の出費は売値の倍くらいになる。
 1968年といえば、海外旅行が自由化されて5年目。ジャンボ機はまだ導入されていないから、海外旅行は依然として特権階級だけのぜいたく旅行だった。
 東京からの航空運賃が出ているからちょっと紹介してみよう。小学校教員の初任給が8800円だったということを頭に入れて、次の金額を考えて欲しい。料金はいずれも往復。
  ソウル    46,400円
  香港     106,350円
  バンコク   155,200円
  デリー    243,300円
  ロンドン   463,500円
  ニューヨーク 345,600円
  サンパウロ  524,200円
 一般旅券は一次と数次の2種類あるが、数次旅券は特別の許可を受けた者だけに与えられるもので、有効期限は2年だった。料金は、一次で1500円。
 例えば、タイに行きたいと思ったとする。航空運賃は上記のとおり。ビザなし入国は48時間以内の滞在だから、ビザを取らなければいけない。料金は不明だが、ビザ申請の手続きは楽だ。さあ、出発だ。
 飛行機はバンコクに着いた。銀行へ両替に。1ドルは20.80バーツ。
 空港からはタクシー。「タクシーはメーターをつけていても使っていないから、乗る前に値段の交渉が必要である。市内まで、80バーツ以上」。
 ホテルはサイアム・インターコンチネンタルなら17から21ドル。パークホテルやトロカデロクラスといった中級ホテルなら11から15ドル。1ドルは 360円だった時代だから、10ドルで3600円、20ドルなら7200円。ちなみに、当時の日本の民宿料金は平均1600円、帝国ホテルは4300円。 中級ホテルでも、帝国ホテルなみの料金だったことがわかる。日本円がいかに安かったかがよくわかる。
 [食事]の記事は、こう書いてある。「タイ人の好む料理の一つにミーがある。これは中華そば、こんにゃくを主として肉、野菜を加えて、油で調理したもの」。コンニャクは使ってないだろ。
 [買物]は、「ワニ革、象牙、タイ銀、タイシルクの製品、トカゲ革。宝石などもよい」。
 そういう時代だったのである。この本と現在の旅行事情を比較すれば、一冊分のネタがころがっているが、残念ながら、そういうテーマに興味がある読者はほとんどいない。