―「めし屋はいいな」―
特別寄稿:アジア文庫店主
まさか、前川さんに宿題を出されるとは思わなかった。「アジア文庫のレジ裏から」の更新が、あまりにも少ないことに、業を煮やしてのことでしょう。
「めし屋のオヤジと、本屋のオヤジと、どちらが気楽な稼業か?」、アンケート調査をしてみれば、多分、「本屋のオヤジ」、と答える人が圧倒的に多いでしょうね。昔から本屋のオヤジといえば、日がな一日、レジで本を読める気楽な稼業、というイメージが強いようだ。
業態のまったく違うものを比較するのも、あまり意味がないような気もするのだが、世間から「呑気なやつら」と思われている本屋のオヤジにも、時に、「めし屋はいいな」と思うことはあります。
私が、お昼に、毎日のように通っている定食屋は、刺身が山盛りで、味噌汁も具沢山の「マグロのなかおち定食」(800円)が人気メニューで、よく売り切 れになってしまう。「すいません、なかおちは売り切れました」、「あ、そう、じゃ、肉豆腐定食ください」、といった会話が、お客と店員との間でよく交わさ れている。
「めし屋はいいな」、と私が思うのはこの時だ。本屋では、「前川さんの『東南アジアの日常茶飯』をください」、「すいません、売り切れました」、「あ、 そう、じゃ、『タイの日常茶飯』をください」、とは、絶対にならない。本は、一部の実用書や語学書などを除けば、代替が利かない商品がほとんどだ。しか も、商品数がやたらに多い。調達に時間がかかる。品切れ・絶版は頻繁に発生する。お客さんが求める本を、求める時に手渡せないことが、かなりの頻度で発生 する。つまり、メニュー(目録)には載っているが、提供できない事態が多発する。
さらに、めし屋に来店した客は、必ず注文してくれる。本屋の来店客は、購入者のほうが少ない。うらやましいとは思うが、そのことはさして気にならない。 購入しない人も、本屋には大切なお客さんだと思っている。私自身、他の小売店にひやかしで行くことはよくある。その時には買わなくても、何度か行っている うちに購入することもある。
でも、たとえば、こういうことはある。アジア文庫のトイレは、レジ脇にあって、無断では入りにくい。先日、無言でヌーッと、レジにいた私の脇をすり抜け てトイレに入った男がいた。やがて、ヌーッと出てきて、店内にしばらく滞在した後、やはり、ヌーッと出て行った。後でトイレに入ったら、粗相の残骸があち こちに散らばっていた。
小さい子も脅威だ。彼らは、やたら触るのである。表紙や、頁を折ることに何のためらいもない。落っことすことにも無頓着。あっちからこっちへ本を移動す る。平積みを崩す。それを注意しない親にさらにイライラする。あまりにひどい時は、私自身が注意するが、たまに、「触っちゃだめよ」と言う親の言葉を素直 に聞いて、おとなしくしている子もいる。それだけで、私は彼らの親を尊敬のまなざしで見てしまう。注意すれば、子供はある程度聞き分けてくれるのだ。
「本は返品できるからいいよな」、というのも他の業界からよく聞く言葉だが、これも少し誤解されているようだ。確かに、新刊本は、刊行されてから3ヶ月 以内であれば、ほとんどの本が返品できるけれど、支払いは入荷の翌月にはたってしまう。さらに、注文で取り寄せた既刊本は、原則的に買い切りになる。ま た、返品可能な本ばかりを扱うことも可能だけれど、おそらく、魅力のない、極めて薄っぺらな棚しかできないだろう。アジア文庫の在庫を考えてみても、いつ でも返品可能な本は、3割くらいしかないと思う。売れなければ、不良在庫として自分でかぶらなければならない本のほうが多い。
「めし屋はいいな」、と私が思うもう一点は、万引きがない、ということ。食い逃げ、というのはあるのだろうが、万引きの件数に比べれば、微々たるものだ ろう。万引きは、本屋にとっては死活問題だ。最近、日本書店組合で、加盟書店に万引きの実態をアンケート調査した結果が発表されたが、一書店あたり平均 で、年間200万円を超える被害にあっているという。万引き犯の大半は、中高校生と言われている。幸い、というべきなのだろうか、アジア文庫の来店者に は、この世代は皆無に近い。では、万引きの被害はないのか、さすがに200万円ということはないが、大人でも万引きをする。むしろ、子供よりもたちが悪 い。高額品をねっらた確信犯がいる。一日の売り上げが吹き飛んでしまうこともあった。被害にあったあとは、数日間気持ちが晴れない。万引きは犯罪です! 「つい出来心で…」などという言い訳は本屋には許せない。本の粗利は、2割少ししかない。1万円の本を、1冊万引きされたら、4万円の売り上げが消滅した のと同じことになる。200万円なら、800万円か、それ以上にもなる。その本が、補充されるまでの期間に売れた可能性を考えると、被害額はもっと大きく なる。本屋が万引きに敏感になるのもお分かりいただけるだろうか。万引きの話になるとつい力が入ってしまうのだが、大多数の人には無関係な話なので、これ くらいにしておきます。
と、まあ、本屋のオヤジも、それなりの気苦労とともに、稼業に打ち込んでいるのですが、「のんびり本を読んでいる時間」がないか、と言えば、アジア文庫のオヤジに限れば、30分くらいはある、とお答えしておきます。
やっぱり、めし屋より楽かな?
付記
飯屋のおやじとして紹介した東京・信濃町のタイカレー屋の店主暮地さんも、この文章を書いてくれたアジア文庫の大野さんも、すでにこの世の人ではない。ふたりとも60歳前後で亡くなったふたりを思い出して、この付記を書いておきたくなった(2018年8月)。