95話 皮肉なことに


 海外旅行というのは、異文化理解に多大な貢献をするはずだと、なんとなく思っていた。日 本人が外国の地を訪れ、例え団体旅行であっても、写真やテレビではない実際の風景を目にし、街の音を聞き、そのなかで食事をしていれば、井の中の蛙時代と は違って、異文化が多少なりともわかり、そのなかから異文化をもっと深く知りたいと思う人が出てきて、研究者や翻訳者や市井の好事家などが生まれていくも のだと思っていた。
 ところが、どうも違うらしい。
 例えば、タイだ、1970年代末から80年代にタイを訪問した日本人は、年間20万人をちょっと超えるくらいだった。なぜこの時代を例にあげたかという と、井村文化事業社が、東南アジア文学を翻訳して次々に出版したころだからだ。タイ文学の翻訳がどれもよく売れたとはいえないが、何冊かは増刷された。
 現在、タイを訪れる日本人は年間100万人を超えているが、訪問する日本人が増えるにつれて、この手の本が売れたということはない。バリ島の名を知る日 本人は少なく、サムイ島は一般的にはまだまったくの無名で、日本にタイ料理店は数軒しかなかった時代のほうが、翻訳文学や軽めの研究書やジャーナリストの エッセイなどが売れたのである。もしもいま、大出版社が「アジア文学大全集」を発刊し、大々的に宣伝したとしても、ほとんど売れないだろう。
 旅行者が多くなるほど、堅めの本が売れなくなるという現実を、どう考えたらいいのだろう。
「そりゃ、本自体が売れなくなったからだよ」という人は多い。たしかに本は売れなくなった。しかし、タイへの訪問者はこの20年で5倍以上に増えているの だ。それなのに、タイに関する本の読者が減っている事実をどう考えればいいのだろうか。旅行情報なら、活字媒体よりもインターネット情報を利用するから本 や雑誌が売れないというのはわかる。しかし、文化や歴史の情報は、やはり本を読むしかない。だから、単純に本を読む人が少なくなったというだけのことでは ないはずだ。
 実は、これはタイだけの話ではなく、ほかの国でも同じ状況らしい。ガイドブック類と語学教科書だけは売れているが、それ以外の本はまるで売れない。
 なぜ、こうなったのか。その背景はこういうことだろう。
 まず、訪問先がバリやサムイ島やプーケット島などに代表されるように、リゾート地が多くなったことだ。リゾート地で過ごす人は、それがどこであれ、その 国の文化などに興味を持たないものだ。もうひとつの理由は、旅行が内行的になったことだろう。旅行だから、体は外に向かって出て行くのだが、心は自分の中 心に向かっている。わかりやすく言えば、「自分探し」などと称するものであったり、買い物やエステの旅というものは、旅行地そのものには関心が向かないと いうことだ。
 だから、どんなに旅行者が増えようと、バリがどこの国にあるのかわからないとか、ベトナムでは雑貨しか見ていないということになる。そうなれば、その国の歴史や文化などどうでもいい。バリやベトナムの宗教がどんなものでも、買い物には関係ないし、
その国の人がどういう生活をしてようが、関係ない。
 私のこの仮説が正しければ、海外旅行が異文化理解につながるというのは空論でしかないことになる。年間1600万人の日本人が外国に出かけていながら、たえず「国際交流」や「異文化理解」の必要性が叫ばれている理由はそこにある。